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『咲く花に寄す』 その1


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 冬枯れの畦道を踏み締めて、のどかというには寂れすぎている田園風景の中を、ゆっくりと歩いてゆく。
 ほとんどの田んぼは田おこしが終わっていて、掘り起こされた黒々とした土が一面に広がる。ビョウと音を立てた冬の乾いた旋風が、頬を擦り抜けて行くが、リズミカルな歩行によって身体は火照っているくらいなので、寒さは感じない。年齢にしては健脚であり、散歩と言うには距離が長すぎる歩行を日課にしているせいか、自分でも若さを保てている方だと思う。
 ふと、「労働」へと向かう道すがらの色彩のない荒野が想起され、頭を振って脳裏から追いやる。そうだ……あの時は、どんなに身体を酷使しても、靴底を通して沁み込んでくる冷気を、どうすることもできなかった。痩せた身体に食い込む忌々しい煉瓦の重みを、今でもありありと思い出せる。
 田んぼの果てには、埃っぽい国道が二本、東西、南北に伸びており、山城大橋の赤い鉄橋のたもとでクロスしている。まだあの巨大な赤色のアーチが存在しなかった頃の情景、村の空気感を、懐かしく思い出す。細長い渡し舟に乗って、木津川の対岸まで行くのが好きだった。あの頃は、一休寺辺りまでは子供でも歩いて行くのが普通だったなと思う。
 いつものコースより一本東の道を通って、集落に入る間際、道端の祠にお地蔵さまが祀られているのに気づく。もう何十年に渡って何度も通っているはずの道なのに、新しい発見があることに驚かされる。
 軽く拝んでから、バッグから愛機のペンタックスを取り出し、ファインダーを覗き込む。フィルムはネオパンSSで感度100、絞りは5.6と、考えなくても頭は把握しており、ファインダー右横の光点に合わせてシャッター速度を決める。真新しい前掛けをつけたお地蔵さまに、手動でピントを合わせる。パシャリと、機械式のシャッター音が心地よく響く。自動的に右手が動いて、フィルムを巻き上げる。何枚かアップを押さえてから、アングルを変えて祠ごしに背景を入れて撮影する。
 ペンタックスのフラッグシップ機、LXの黒いボディは、既に身体の一部みたいに手に馴染んでいる。先年発売されたこのカメラを、発売と同時に入手して、以来ずっと愛用している。カメラは何台か使ってきたが、ルックスも使いやすさも描写力も、ピカ一の機種であり、おそらくこれが最後の愛機になるだろうと思っている。
 かつて街道だった通りから一本南の裏道を、のんびりと東へ進む。左手、古民家の奥に、酒蔵が立ち並ぶ我が家が見えてきて、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべる。すでに仕事は息子としっかり者の妻に任せて、ほとんど楽隠居の身分ではあるのだが、日中ふらふらしている現場を妻に見られると、恨みの込もった嫌味を言われるのは必至であり、なるべく目につかないルートを選ぶことにしている。
 もう、何年になるのだろう……
 身を切る寒風が吹きすさぶシベリアの荒地から帰還し、戦争の傷跡を全く感じさせない、緑溢れるのどかな故郷の情景を目にした時のことを、彼はふと思い出す。
 中国大陸での戦線を生き延び、終戦を迎えたあとも、俘虜となってシベリアに抑留され、過酷というにも余りある労働を強いられた。死は、いつも隣りに在った。もう、自分は此処で死ぬのだ……と、投げやりな諦念を噛みしめる瞬間が何度も通り過ぎていった。
 戦死の報を受けていたという家族は、幽鬼のようにやつれた自分を、涙で迎えてくれた。心身ともに疲弊し尽くし、数ヶ月の間、ほとんど寝たきりで過ごした。
 祖父が興した酒蔵の跡取りである彼であったが、何度も失くしかけた生命である、最低限の仕事だけこなして、あとは好きに生きようと決めて、周囲もそれを許してくれた。老いた父母にとっては、てっきり死んだと思っていた息子が帰ってきて、居間でにこやかにご飯を食べているだけで十分だったのかも知れない。
 程なく、一回り以上も歳下の妻を娶って、子宝にも恵まれた。冗談を解さず、万事に四角ばって、気が強すぎるのが難点だったが、家業に関しては頼りにならない自分に代わって、よくやってくれる妻であった。
 数ある趣味の中で、一番熱中できるのがカメラだった。
 カラーもやるが主に黒白で、自室を改造して暗室を造って、現像も焼き付けも自分でやっている。
 高名なコンテストにも何度か入賞し、出版社やイベントに顔を出すうちに、ポツポツと撮影の依頼も舞い込むようになり、今では月に数本の仕事をこなしている。気ままに見えて、実は案外忙しい身なのである。なんとなく気恥ずかしいので、雑誌に載る際にも筆名を使って、家族には一切内緒にしている。一度だけ、孫の健吾に「これじいちゃんが撮ってんぞ」とこっそり見せたことがあるのだが、「ふうん」と興味なさげに一瞥して、そのまま遊びに行ってしまった。
 郵便局を右に折れて山城逢谷駅に至り、少しだけ迷って、そのまま地元を散策することにする。ちょうどプラットホームに入ってきた奈良行きのオレンジの車輌を、駅舎の外から見送る。
 国鉄が民営化されて数年経つが、いまだ「JR」という呼称が耳に馴染まない。この奈良線も長らく遍歴を見てきており、逢谷駅が観梅のための仮の停車場だった頃から知っている。つい20年ほど前までは、蒸気機関車が走っていたものだ。
 ふと、木造の駅舎の前に現れた女の子に目が留まる。
 雑貨屋の奥さんの後に付いて今の電車を下りたようだが、どうも連れではないらしい。駅の入り口に佇んで、白い小さな顔を緊張に強張らせて、黒目がちの瞳で周囲を窺っている。
 明らかに地元の子ではないし、一人で電車でお出かけするには幼なすぎる。ちょっと気になって、声をかけようと身体の向きを変えた瞬間、女の子はててて~と急ぎ足で歩み去ってしまった。きっと、親戚の家にでも行ったんだろうと、思うことにする。
 駅前のスーパーを左手に見ながら、別の集落へ向かう。
 そろそろ、小学生が下校する時間であり、黄色いランリュックを背負った児童たちの姿がちらほら見られる。顔見知りの子とは挨拶をして、軽くおしゃべりする。いつも校区内をふらふらしているので『酒屋のおっちゃん』として有名らしい。
 子供は好きな性質(たち)で、たいていの子とはすぐに友達になれる。年に一度ほど、社会見学の一環としてお願いされる「酒蔵見学」では、うちの中で一番適任、かつヒマそうな自分が、案内役を任させる。好奇心にキラキラ顔を輝かせている子供たちに向かって、話しをするのは楽しく、小学校の教師もやってみたかったなと思う。
 校門脇の大楠が目立つ逢谷小学校を過ぎて、さらに別の集落へと道は続く、無沙汰をしているお寺の和尚にでも逢いに行くかと、ふと顔を上げた瞬間、薄桃色の小さな影が眼に入る。
 先ほど、駅で見かけた女の子だ。緊張と不安をありありと卵型の顔に滲ませて、横断歩道の端に佇んでいる。
 ちょうどカーブを抜けた辺りで見通しも悪く、道を渡りたいらしいが、車通りが多くてなかなかタイミングがない。鉄パイプをいっぱいに積んだ1トントラックが、少女を掠めるようにかなりの速度で通り過ぎてゆき、思わず「危ない!」と声を上げる。
「おっちゃんと一緒にわたろか。ほい」
 早足で近寄って、右手を差し出して、にっこりと微笑む。少女は少し不思議そうな顔をするが、迷いなく左手を差し出す。愛らしい小さな手を握る。手袋をしないままのその手は、氷のように冷え切っていて、なぜか妙に心に染みて、まぶたにじんわり涙が滲む。
 左手を挙げて、走行してくる白いホンダに合図を送る。止まってくれた若い運転手に笑顔で会釈をしてから、二人で横断歩道を渡る。背の高い彼は少し腰をかがめなければならないほどに、少女はまだ小さい。
「を、”ベア男さん”やん」
 女の子の肩下まである黒髪をまとめている、可愛いバレッタに目が留まる。はにかみ笑いを浮かべたクマのキャラクターであり、子供たちの間でブームになっているらしい。
「お嬢ちゃん、“ベア男さん”好きなんか?」
 ちょっと考えてから、女の子はコクリとうなずく。
「あんなあ、こんなん持ってんねん……」そう言いながら、ゴソゴソとカメラバッグをまさぐって、赤色のポケット・ティッシュを取り出す。
「“ベア男さん”のポケット・ティッシュ。うちのばあさんにティッシュくれ言うたら、こんなん出してきよってな。『ええ大人がこんな可愛いの使えるか!』言うたら、『文句言うんやったら自分で買いよし!』ってえらい怒られてなあ、しゃあなしに持ってんねん。お嬢ちゃん、これ、もろてくれへんか?」
「……いいの?」
「うん、もろてくれたらおっちゃんがたすかんねん。可愛い女の子にあげた言うたら、新しいの買う口実ができるやろ? はい、どうぞ」
「ありがとう」女の子はおずおずとティッシュを受け取って、肩からかけている赤いポシェットにしまう。
「こっちこそありがとう。これでおっちゃんの好きな仮面ライダーのやつ買えるわ」
 冗談を分かってくれた訳ではないだろうが、女の子はコクリとうなずく。
「なあ、お嬢ちゃん、これからどこ行くんや? よかったら、おっちゃんが案内したろか? おっちゃん、生まれも育ちもこの町やし、このへんのことやったら何でも知ってるで。どこへでも、つれてってあげるさかい」
 女の子の正面にしゃがみ込んで目線を合わせると、穏やかな微笑みを浮かべてそう言う。大人を含めて、ほとんどの女性は彼を怖がることはない。面長な顔に優しげな褐色の瞳を細める彼の容貌は、どこか大型犬に通じる安心感と愛嬌を感じさせるようだ。
「……ねえ、おじさん」
 少し迷った後、何かを決意したように小さな顔を上げて、女の子は鈴が鳴るような声を発する。
「ん、なんや?」
「うめかんのんさま しってますか?」
「うめかんのんさま ??」
「あたしね、うめかんのんさまに、会わなきゃならないの。うめかんのんさま に会って、おねがいするの。おばあちゃんをたすけてって。おばあちゃんのびょうきを、なおしてくださいって!」


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