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『咲く花に寄す』 その18

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 毎年梅まつりが行われるなだらかな広場を回り込むようにして、小径は続いてゆく。
 左手は、大規模な砂利採集場になっていて、山ごと削り取られて黄土色の砂地が剥き出しになった様子を、見下ろすことができる。重低音を響かせて重機が行き交う、巨大な蟻地獄みたいな光景を、彼は寂しそうな笑顔を浮かべて、しばらく見つめている。
 下り坂になる道をゆっくりと歩きながら、彼は話しを続ける。鬱蒼と生い茂る竹林のトンネルに入り、ふっと暖かかった陽光が陰るのを肌で感じる。 
「辛かった戦争が、死ぬような思いをなんべんもした戦争が、やっと終わったんやけど、しんどいのはそれで終わりやなかった。中国で生き残った日本の兵隊の多くが、捕えられて、シベリアっていうそれは遠い場所まで連れて行かれてな、きついきつい労働をさせられたんや。
 ほんまはそんなこと、国と国どうしの約束からしたら、あかんことやねんけど、あの頃の日本は戦争に負けてしもて、力がなかったから、強い国の言いなりになるしかなかったんやな。
 いつ果てるとも分からん、地獄みたいな日々が、何年も続いた。いっそ死んでしもた方が楽やろうって、なんべんも思た。でもな、あの人が……結婚の約束を交わしたあの人が、自分のこと待ってくれてはる……そんな微かな希望があったから、ギリギリのとこで生き延びることができたんや。
 終戦から、5年以上経って、やっとこの村に戻ってくることができた。とっくの昔に死んだて連絡を受けてたらしいうちの家族は、そら驚いて、喜んでくれたんやけど、一つ悲しい報せが届いてた。
 あの人が、他の男との結婚が決まって、まさにその翌日、祝言が行われるんやて。あの人が自分でうちまで来て、頭を下げて報せてくれたんやて。
 おっちゃん、もういても立ってもいられんようになってな、あの人が嫁いでいくいうその村まで、歩いて行ったんや。山の奥の、そら遠い場所でなあ、ボロボロの身体を引きずるみたいにして、夜通し歩いてその村に行ったんや。
 あの時の光景は、ほんまに忘れられへん。
 満開の桜が咲き誇る野道を、目にも鮮やかな純白の花嫁衣装を身につけたあの人が、しずしずと歩んでた。綺麗でなあ……あの人は、そら綺麗でな、あれは現実に見た光景なんやろかって、今でも疑いたくなるくらい、夢みたいに美しかった。
 正直な、恨みに思う気持ちもあったんや。約束したのに……なんでもうちょっとだけ、待っててくれへんかったんやって、恨みに思う気持ちも確かにあった。
 でもな、あの人の決意を秘めた瞳を見た瞬間に、おっちゃん分かったんや。あの人が、どんな思いでぼくを待ってくれてたか。何年も前に、戦死の報を受けてたのに、それでも信じて、ずっとおっちゃんを待ち続けてくれてたあの人が、どんな思いで他の男に嫁ぐ決心をしたんか。
 あの人の気持ち思たら、切のうて、愛しゅうて、涙が溢れて止まらんかった。あの人が選んだ新しい人生を、心から祝福しようと思た。そしておっちゃんも、なんべんも死にかけたこの生命を大切に、生まれ変わったつもりで生きて行こうって、思えたんや」
「おじさん、悲しかった?」
 美佳が、あの人によく似た黒い瞳をきらめかせて、自分を見つめている。幼児にとっては、興味も惹かれないつまらない話題だろうし、半ば独り言のつもりで話していたのだが、ちゃんと理解して、深く共感してくれていることが、その表情からよく分かる。
「そやなあ。悲しい気持ちもそらあったけど、それ以上に、あの人が自分の幸せをちゃあんと見つけてくれたことが、おっちゃんは嬉しかってん。辛い時代をお互い生き抜いて、あの夢みたいな春の光景を同時に見れた……それだけでもう、十分やんかって思えた。上手いことよう言わんけど、穏やかな、昔と同じまんまの日本の風景の中で、あの人が、あの人のままでいてくれた、それだけでもう、おっちゃんは十分やったんや」
 神妙な顔をしている美佳に、微笑みを向ける。あれから幾星霜を経た、今の自分の多幸感に満ちた穏やかな心情を、あの人にも伝えることができたらと思う。
「なあ、美佳ちゃん、おばあさん、きっとようならはるで。きっとようなって、また美佳ちゃんに美味しいお料理、ぎょうさん作ってくれはるわ」
 心からの祈りを込めて、彼はそう呟く。


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