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『咲く花に寄す』 その10

    8

 ざらつく地面に押しつけた頬がヒリヒリと痛む。凍てついた大地は、地面に投げ出した痩せさらばえた体躯から、容赦なく熱を奪い取ってゆく。
 狂騒の余波は、全身に残っている。栄養失調と過酷な労働で衰弱しきっている彼の身体を、数十人の男たちが取り囲んで、狂的な笑い声を上げながら暴行を加えた。全身がズキズキと疼き、痛まない場所を探す方が難しいほどだった。
 頭痛や脱力感は常態化していて、いつからなのかも、健常時の感覚すらももはや思い出せない。酷寒の中の労働で、手脚は冷え切り、鉛のように重い。しかし、彼が突っ伏したまま立ち上がれないのは、肉体的な不調ではなく、精神を蝕む真っ黒な絶望の為であった。
 ハバロフスクの俘虜収容所。
 ソ連の赤化教育の一環として、俘虜の中から養成されたアクティブ(活動分子)たちが、収容所内部で“民主運動”を行い、その主義主張に同調しない者は「反動」と呼ばれて差別された。
 彼自身は、特に主義と言えるほどの思想もなく、生きるために主張を曲げることにもさほど抵抗はなかったが、それでも、これ以上は譲れない確固たる一線はあった。保身の為に、内心軽蔑するアクティブたちにおもねる事はできなかったし、他者を罵倒しあげつらう人の渦に加わる事もできなかった。
 次第に「反動」のレッテルを貼られ、爪弾きにされるようになった。
 労働のノルマは増やされ、食事の量は減らされた。日常的に監視され、嘲笑や侮蔑の言葉を容赦なく浴びせられた。
「自己批判」と言う名目の、吊し上げ、リンチにも幾度となく遇った。
 この日も労働からの帰着後、バラック横の広場で行われる「批判会」において、彼のほんの些細な行動があげつらわれ、悪意のあるサボタージュであると断定され、集団による批判攻撃が行われた。
 過酷な労働も、骨身に滲みる寒気も、黒パンと薄いスープのみの粗末な食事も、なんとか耐えることはできた。しかし、同胞であるはずの日本人兵士たちから、具にも付かない理由で憎悪を向けられることは、魂に応える苦痛だった。
 自分を取り囲む彼らは、狂的な眼をギラギラと光らせながら、聞くに耐えない言葉で罵倒し、蹴りや拳をめり込ませる。それは決して強制された故の行いではなく、彼ら自身が喜悦と陶酔を味わっている事も、その憑かれたような表情からはっきりと分かった。
 地面に丸まったまま動かなくなった彼を放置して、狂気の集団が巣穴に戻ってから、数十分が経過した。自分で起き上がる気力はなく、助け起こそうとする者も誰も居なかった。
 こんな事が、いつまで続んだろう……。ぼんやりと霞む意識の中で、彼は思う。
 このシベリアの地に俘虜として収容されて、もう四年の月日が経つ。
 幾度かあった祖国帰還(ダモイ)の知らせの度に、胸を灼くほどの期待を味わったが、いずれのリストにも彼の名は記されていなかった。喜びを隠せない表情でいそいそとトラックに搭乗し、祖国へと帰還してゆく兵士たちを、憎しみに近い思いで見送った。
 いつか、故郷に帰れる日がくる……苦悶に満ちた日々の中で、ひたすら胸に唱え続けたその希望が、浅はかな夢幻そのものに感じられる。終わりの見えない暗黒の日々が、永遠に続くように思える。
 舞い落ちた一片の雪が、彼の土気色の頬に触れる。暗鬱な鼠色の空から、鮮やかに白い雪片が、はらはらと舞い落ちてくる。
 ああ、梅や……梅の花や……。彼は独りごちる。
 彼の故郷には、山裾に広がる広大な梅林があった。毎年花の時季になると、梅林は枝いっぱいに白い花を身に付け、村全体が雲に覆われたような、桃源郷さながらの光景が広がっていた。
 今年も梅の花が咲いた……帰らんと……。よろめきながら、彼は立ち上がる。
 彼の瞳には、収容所の周囲に広がる、雪まじりの寒風吹き荒ぶシベリアの荒野が、緑豊かな彼の地、花吹雪が舞う満開の梅林そのものに映じている。
 帰る……帰るんや……懐かしいあの場所に……おれは、帰るんや……
 かすかに足を引きずりながら、一歩、また一歩と、彼は収容所と荒野を隔てる有刺鉄線に近づいてゆく。
 混濁する意識の片隅で、このまま歩を進めると、監視中のソ連兵によって、容赦無く射殺されることも認識している。望楼の上に佇む兵士が、自分を視認して、軽く銃を構えてこちらに向けるのが分かる。
 ええぞ、撃ってみい……おれを、撃ってみい……
 有刺鉄線はもう目の前にある。ソ連兵は銃を構えて照準を合わせ、引き金に指を添える。
 せや……おれを撃て……おれを撃って、もう、楽にしてくれ……。もうすぐや……もうすぐおれは、あの場所に還れる……
 穏やかな微笑みを浮かべて、境界線に至る、最後の一歩を踏み出そうとする。
 足元に、やわらかな温感が生じる。
 疑念を覚えて見下ろす。小さな女の子が、愛らしい両手を広げて、彼の脚をしっかりと抱きしめている。
 煉獄に咲く花を見出したような、とんでもない違和感が生じて、まじまじと見つめる。女の子は確かにそこに存在して、檸檬形の可愛い顔に微笑みを浮かべて、彼を見上げている。
 そっちへ行ってはだめよ……明らかな意思を込めて、女の子は首を振る。肩の辺りまである栗色の頭髪が、ふわっと軽く揺れる。
 彼の心を占領していた夢魔が離れたのを悟ったのか、女の子は彼の無骨な手を握ると、丈高い体躯をすり抜けるようにして、バラックの方向へ歩み出す。
 呆然としたままの彼は、なす術もなく少女の先導にしたがう。まだほんの幼児のように見える女の子は、存外力強く、頼りない足取りの彼をぐいぐいと引っ張ってゆく。
 不思議な女の子で、見たこともないモダンな意匠の洋服を身につけている。全身が淡く輝く橙色に近い金色の光に包まれていて、意識を向けると光はふわっと光度を増す。彼の手を引く様子には一切の迷いがなく、委ねていると、母親に導かれているような安心感が滲んでくる。
 安心感はえも言われぬ温感をともなって、じんわりと全身に満ちる。コチコチに硬ばっていた身体が、ゆっくりとほぐれてゆく。不意に、強烈な疲労感がわき起こり、立っていられないほどの眠気が生じて、足どりが乱れる。やがて膝をつくと、地面に崩れ落ち、赤児のように身体を丸めてしまう。
 少女は膝をつくと、愛児を抱くようないたわりを込めて、彼の頭部をしっかりと抱きしめる。彼女の小さな手のひらから、熱いくらいの温感が染み渡ってくる。それは、圧倒的な慈愛であり、全ての存在を慈しみ、赦し、憐み続けている、何者かの深淵な思いも感じられる。
 全身が光で満たされる。心を鎧っていた真っ黒な絶望が、ゆるやかに融けてほぐれてゆく……


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