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『咲く花に寄す』 その25

     20

「一ノ瀬くん!」
 早足を続けてやっと追いついた、健吾の後ろ姿に呼びかける。
「おう、みやこ」
 軽く振り向いた健吾は、待ってくれはしないけれど、歩く速度をゆっくりにしてくれる。
 彼はたいてい、授業が終わるとスタスタと一人で帰ってしまう。なかなか捕まえるのには苦労するけれど、おしゃべり好きの女子たちから距離を置けるのは、ちょっと助かる。
「なあ、美佳ちゃんのおばあさん、もう元気にならはったん?」
「ああ、うん、もう退院して、家にもどらはったらしいで」
「良かったなあ。一時は重病やってんろ?」
「らしいなあ。まあ詳しくは聞いてへんけど」
「美佳ちゃんも喜んでるんちゃう?」
「そらそやろな。まあ知らんけど」
「あれから連絡ないのん?」
「なんでやねんな。別に親戚でもないし。じいちゃんには、ありがとう言うて電話きてたみたいやけどな」
「けんちゃん、寂しいんやろ?」
「……うん、まあそうかもな」
「あれ? 否定せえへんの?」
 意地悪な横目で健吾を見ると、寂しそうに口をすぼめて、下を向いてしまっている。からかうみたいな言い方をして、悪かったかなと少し反省する。
 会話が途切れて、気まずい空気が流れる。しばらくは黙ったまま、二人並んで歩いてゆく。
 結局、バレンタインのチョコは渡せずじまいだった。
 モテ系の男子をこっそり呼び出して、告白して成功した武勇伝を話して回る友達の浮かれた笑顔を思い出して、はあっとため息をつく。
 踏切を渡ると、すぐに健吾の家の酒蔵が見えてくる。また今日も何も言えなかったなと、心の中でそっとため息をつく。
「梅、綺麗やねえ。ちょうど満開かな」
 大谷酒造の敷地にも、梅が植えられていて、違った色合いを見せる数種類の梅を、道路からも眺めることができる。収穫された梅を使用して、梅酒や梅ジュースも作られており、毎年すぐに売り切れるほどの人気らしい。
「よかったら梅林の中で見ていくか? 梅ジュース持ってきたるわ」
「ええのん?」
「うん、こないだの梅観音のお礼もしてへんかったし」
「そんなん、ええのに……」
「あっこ座って待っといて」
 そう言って、健吾は小走りで家の方に向かってゆく。
 ひや、思いっきり通学路やし、他の子に見られたらどうしょう……と戸惑いつつも、ここで断る選択肢はみやこにはなかった。軽く鼻歌を歌いながら、梅林の横に置かれている、赤いもうせんが敷かれた木のベンチに腰掛ける。
「はい」とお盆に乗せて運んできてくれた梅ジュースを、お礼を言って受け取る。
 程よく酸味の効いたジュースを味わいながら、しばらく満開の梅林を眺める。今年は花の当たり年のようで、どの樹も見事な花房を枝先に咲かせている。
「なあ、美佳ちゃんのおばあさんと、けんちゃんのおじいさん、古い知り合いやったみたいな」
「うん、あの如月酒造のお嬢さんやったらしくて、ず~っと昔に会うたことあってんて」
「なあ、けんちゃん、怒らんと聞いて欲しいねんけどな」
「なに?」
「あたしな、その二人、恋人どうしやったん違うかと思うねん」
「ああ……うん。そやな」
「けんちゃんもそう思てた?」
「うん」
「もし、そうやったら、ロマンチックや思わへん? 昔の恋人同士が、数十年後にまた巡り合うやなんて」
「うん。……なあ、みやこ、そのことやけどな、誰にも言わんといたってくれへんかな?」
「え?」
「おれも、なんとなく察しててんけど、じいちゃんにとって、ちょっと特別な、大切な思い出らしくてな、あんまり触れるの悪い気がして、詳しいことは聞かんようにしてんねん。だから、頼む、ここだけの話しにしてくれ」
 そう言って、健吾はペコリと頭を下げる。
「分かってるよ。こんなん、ベラベラ喋ることでもないし、もちろん今までも、誰にも言うてないし。うん、約束する! けんちゃんとわたしだけの秘密な」
「良かった。ありがとう」
 にっこりと笑う健吾の顔を、みやこは眩しそうに見つめる。
「けんちゃんのそういうとこ、わたし好きやで」
「好き」という言葉に力を込めたつもりだが、健吾は特に意識もしなかったようで、顔をそむけて空を見上げる。
 言え……言ってしまえ……みやこは自分に言い聞かせる。
 好きの気持ちを伝えたら、いったいどういうことが起こるんだろう。けんちゃんは笑うだろうか。それとも……また、ありがとうって言ってくれるだろうか……
「なあ、けんちゃん……」
「うん?」
「あんな……」
「うん」
「き……北村が担任のクラス、もう終わりで良かったな! けんちゃんも、せいせいしてんのとちゃう?」
「別に。家庭教師に来てもろてもええくらいやで」
「あ、ほな、電話して頼んだげよか?」
「いや、やっぱ遠慮しとくわ」
「せやろ! ほな、梅ジュースごちそうさま! またね!」
 黄色いランリュックを掴むと、ダッシュで梅林を駆け出す。
 ちょっとだけ、滲んだ涙を右手で拭う。
「この根性なし……。観音さまにもお願いしてたのに、ぜんぜんあかんやん……」
 小さく呟きながら、みやこは木造家屋の立ち並ぶ、逢谷の町を駆けてゆく。誰かが、楽しそうな笑い声を上げている。春の青空を、トンビが大きく弧を描いて飛んでいる。

 山裾に、茅葺きの古民家が立ち並ぶ集落。
 田植えに向けて準備が進む広大な田んぼの奥、小高い丘の上にあるその家に続く、坂道の途中には、段々畑が作られている。
 その中段には、黄緑の草に包まれるようにして佇む、静枝の姿が見える。一面に植えられた菜の花が開花し始めており、可憐に開いた鮮やかに黄色い花弁を、手で撫でるようにしながら愛しそうに眺めている。
 腰を伸ばして、顔を上げて、風薫る春の空気を胸いっぱいに吸い込む。
 穏やかな笑顔を浮かべて、青空を見上げる。
 目を細めて、燦々と降り注ぐ眩しい陽光を全身で受け止める。

 見渡す限り一面に、咲き誇る白梅が白く輝いている。
 なだらかな山の斜面に植えられた広大な梅林が、一斉に花を咲かせ、まさに桃源郷のような光景が広がっている。
 最も眺望の良い場所に作られた東屋の中で、健造は一人佇んで、満開の梅を眺めている。
 梅まつりが開かれる地区とは反対側の山にあるこの場所は、地元民でも知る者の少ない隠れた名所であり、毎年一人で訪れては贅沢な花見を楽しむ。昔はこちら側が観梅の中心だったようだが、国道で分断されてしまってからは、ほとんど訪れる者もいなくなってしまった。
 目を閉じて、微かな風に運ばれてくる梅の香りを感じる。すっかり上手になった鶯の泣き声が、奥の山々から響いてくる。
 バッグからペンタックスを取り出し、目の前の風景を写真におさめる。うん、良い写真が撮れたぞと、心中で独りごちる。
 再び目を閉じて、少しひんやりとした春の空気をゆっくりと味わう。
 ふと、脳裏に浮かんだあの人の面影は、楽しそうに微笑んでいて、彼もつられて笑顔になる。
 オレンジ味を増し始めた空を見上げて、何者かに祈りを捧げる。こんなに世界が美しいことに、それを十全に感じ取れる自分が今ここにいることに、深奥から溢れてくる感謝を感じている。

                      fin.


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