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『咲く花に寄す』 その22

     17 承前

 まだ花の咲いていない梅林を歩きながら、おじさんのお話しを聞いた。おばあちゃんが昔歩いた道を、おじさんと一緒に歩いた。
 白いお花がいっぱいに咲いた梅林は、そんなに綺麗なのかしら。いつか、きっと、見てみたいなと思う。
 そうよ、美佳。ほんまに夢みたいに美しい場所なの……なぜか、おばあちゃんの声が聞こえた気がした。
 いつか、一緒に見てまわれたらええね……胸の中に響いたおばあちゃんの声に、美佳はにっこり笑って、こくりとうなずく。
 なだらかな山道を上ってゆく。いくつかの梅林を抜ける。お日様を浴びて、黄緑色にキラキラと輝く竹林が揺れている。
 緩やかにカーブする山道の先、竹林のトンネルの中で、うめかんのんさまが待ってくれていた。
 夢中で駆け出す。おじさんが追いつくのを待って、ゆっくりとかんのんさまに向き合う。
 道端の小さな祠の中におわすうめかんのんさまは、微かに揺れる白金色の木漏れ日を浴びて、優しくにっこりと微笑んでいる。
 うめかんのんさま……わたしのおばあちゃんが、病気でくるしんでいます。どうか、おばあちゃんの病気を治してください。どうか、おばあちゃんがまた元気になって、おいしいお料理たくさん作ってくれますように。また一緒に楽しいことがたくさんたくさんできますように……
 目をつぶって、小さな手を合わせて、必死でお願いをする。
 淡いオレンジ色の、不思議な光を感じる。頭がくらっとするような、エレベーターで降下する時みたいな、ふっと身体が移行する感覚を覚える……

 ゆっくり目を開けると、周囲の様子は一変していた。
 ぼんやりと薄暗く、遠くの方は濃い紫色に滲んでなんにも見えない。竹林はザワザワと不穏な音を立て、奥深くには悪意を秘めた何者かがひそんでいるような気配がある。
 生暖かい風が吹き付ける。どこかから響いてくる不気味な生き物の鳴き声に、ギュッと身体を硬くする。
 一緒にいたおじさんを目で探すが、姿が見えなくなっている。真っ暗な不安がむくむくと育ちかけたその時、すぐ近くに、全く変わらない うめかんのんさまのお姿があるのが目に留まる。
 大丈夫……ほんわりとオレンジ色に輝くうめかんのんさまは、優しく笑ってそう言っているように思える。
 かんのんさまの前で、一人の女性が祈りを捧げている。ひざまずいて、蒼白な顔をうつむけ、白くなるほどに両手を固く組んで、何やら必死に祈願している。
「お姉さん、なにをお祈りしてるの?」
 美佳は思わず問いかける。
「謝ってるの……」
「あやまってる?」
「観音さまにも……あの人にも……謝ってるの」
「お姉さんは、そんなに悪いことをしたの?」
「わたしは……待ってることができひんかった。あの人のことを……。待ってるって、あんなに固く、約束したのに……」
 あっ……と小さく叫ぶと、女性は両手を左胸に当てて、身体を折って縮こまる。苦悶の表情を浮かべた白い顔に、玉の汗が吹き出る。
「心臓が苦しいの?」
 女性がこくりとうなずく。自分にできるだろうかと、考えるより前に身体が動く。女性の懐に潜り込むと、小さな両手を柔らかくふくらんだ女性の胸に当てる。いつもおばあちゃんがやってくれる要領で、「いたいのいたいの飛んでいけ~」とお祈りしながらマッサージをする。自分の手のひらが、ほんわりと熱を持つのを感じる……

「ありがとう。すっかり楽になったわ」
 しばらく後、落ち着きを取り戻した女性が、照れたような笑顔を見せる。
 学生さんだろうか、セーラー服を着ているが、下は田舎のおばあさんが着るみたいな先のすぼまったズボンを履いている。お下げにした髪を両側に垂らしていて、黒目がちの瞳は、ちょっとお母さんに似ているなと思う。
「なんや、あんた、湯たんぽみたいにあったかいなあ」
「お姉さんこそ、氷まくらみたいに冷たいわ」
 目を合わせた二人は、クスクスと笑う。
「お姉さん、待っていられなかったって、もしかして戦争に行った人のこと?」
「……なんで、そんなこと知ってんの?」
 赤味がさしていたお姉さんの顔が、再び蒼白になる。
「あのね、あたしの知ってるおじさんも、おんなじことがあったんだって。長いあいだ戦争に行ってて、やっと帰ってきたら、結婚の約束をしていた好きな人は、他の人と結婚してたんだって」
「その人は、怒ってた? きっと、ものすごく怒って、その人を裏切った女のこと、恨んでたんでしょう?」
「いいえ」
 美佳は、はっきりと意図を込めて首を振る。
「おじさんは、怒ってなんかいなかった。好きな人が、幸せに生きる決心をしてくれて、嬉しかったって言ってたわ。おじさんが戦争から帰れるように、ずっとお祈りしてくれてたことが、とても嬉しかったって言ってたわ」
「本当? それは、ほんとう?」
 お姉さんは、眉をしかめて、美佳を見つめる。
「ほんとよ。ここまでわたしを連れてきてくれたの。会わせてあげましょうか?」
「ここに……来てはるの? ああ……ほんまや……あんたの言うことはほんまや。誰かの……あの人の、感謝の気持ちが、あたしに伝わってくる……。あの人は、涙流して、あたしにありがとう言うてくれてはる……」
 お姉さんは、涙を浮かべながら、クロスさせた両手で、自分の胸を抱きしめる。
「あの人の気持ちが、胸に染み渡ってくる……。あったかい……すごくあったかい……。こんなにあったかいのは、久しぶりやわ……」
 シクシクと声を上げて泣いているお姉さんの姿が愛しくて、美佳はそばによって、背中をさすってあげる。
「ありがとう。あたし、今、幸せで、身体がポカポカしてるの。あんたのおかげやわ」
「もう氷まくらじゃない?」
「どやろ。ためしてみるか?」
 そう言って、お姉さんは両手で美佳の頬をすりすりする。
「なあ、あんたのこと、抱きしめてええか? なんや、あたし、あんたのこと見てたらな、胸がキュンってするくらい、愛しい気持ちが溢れてくんねん」
「いいよ。あたしも、お姉さんのこと大好き!」
 お姉さんの胸に飛び込んで、ギュッと抱きしめ合う。かすかに、お花の良い匂いがする。
「なあ、また会えるかなあ」
「うん! きっとまた会えるよ!」
 笑い合う二人を、うめかんのんさまが見守ってくれている。オレンジに近い金色の淡い光がふわっと広がって、二人を優しく包み込む。微笑みを浮かべたうめかんのんさまが、なぜか小さな女の子の姿に見える。栗色の髪を揺らしたその子は、煌く光輝そのものである祝福を、愛すべき地上を生きる民たちに送り続ける。


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