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『咲く花に寄す』 その24

     19

 幸福な夢を見ていた。
 その夢の中では、大切なあの人と結ばれて、共に人生を歩んでいた。
 戦争から無事に帰還したあの人と結婚して、田舎の酒蔵を継いで、ささやかながらも幸せな家庭を築いていた。
 子供は、女の子と男の子の二人。時々トラブルも発生するが、それすらも楽しんで、二人は人生を生きていた。
 不思議なことに、二人とも、それが夢の世界であることに気づいていた。
 もしかしたら、そこは、何者かが二人の為に用意してくれた、特別な異世界だったのかも知れない。夢であることを知っているからこそ、二人は一瞬一瞬を慈しみ、現実世界で数十年を過ごすよりも濃密な時を、その世界で過ごしたようだ。
 老境を迎えた二人は、大切な想い出の場所である梅林に、手に手を取り合って向かう。
 見渡す限りに咲きほこる、棚引く白雲のような満開の白梅を目の前にして、二人は蕩然とした心地に浸っている。
 あの人は、あたしの手を取って、こう言ってくれた。
 きみがしてくれたことの全てに、ぼくは感謝するよ……

 ゆっくりと、眼を開ける。しばらく、幸福な夢の余韻に浸っている。
 無機質な天井を目にして、ここが病院であることを認識する。何かの病気やったかしら……と考えて、自宅の台所で、心臓に違和感が生じて、倒れた瞬間を思い出す。
 人の気配を感じて、少し顔を上げると、最愛の孫である美佳が、ベッドの脇の椅子にちょこんと座って、自分を見つめている。
「美佳。あんた、どないしてんな……?」
 まだ少ししゃくり上げている美佳は、目とほっぺたを真っ赤にしていて、ついさっきまで涙を流していたことが分かる。そんなに心配させてしもたのかしら……と、申し訳ない気分になる。
「……あら?」
 いまだ残る暖かさを確かめるように、自分の右手のひらを見つめる。
 夢の中ではなく、確かに誰かが、側に居て、この手を握ってくれていたような気がする……。
「なあ……いま、ここに、誰か居はった?」
 少し迷った後、美佳は、はっきりとうなずく。
「健造さんね? 健造さん! そうでしょ?!」
 なぜ、自分がそう思ったのか分からない。
 あれは、夢だったのだろうか? 
 ついさっきまで、懐かしいあの梅林を、二人であれこれ話しながら、歩いていた気がする。ついさっきまで、あの人はすぐ側にいて、懐かしいあの声で、語りかけてくれていた気がする……
「あのね……おじさんね……おばあちゃんには、内緒にしてねって言ってたの」
 美佳が痛みに耐えるような顔でそう言う。
「でもね……あたし、呼んでくる! おじさん、おばあちゃんに、会いたかったんだと思うの。あたしにはそれが分かるの。しかられても良いから、わたし、おじさんのこと呼んでくるね」 
 廊下では、おじさんが、母の絹枝と話している気配がする。今ならまだ間に合う。まだおじさんを、引き止めることができる。
「ええの、美佳。あの人がそう言わはったんやったら、もうええの……」
 立ち上がろうとした美佳の右手を、しっかりと握る。もの問いたげな美佳の顔に、目を細めて笑いかける。
 急激に動いたことが響いて、軽く目眩がする。ふらついた身体を、美佳がしっかりと抱きしめてくれる。いつの間に、この子はこんなに大きくなったんだろうと思う。
「大人はずるいなあ……。勝手な約束であんたのことしばって。ほんまずるいなあ……」
 胸の中の美佳は、いやいやをするように頭を小刻みに振っている。
「なあ、美佳、あんた、健造さんに会うたの? おばあちゃんに教えてくれる?」
「あたしね、おばあちゃんの病気が心配で、うめかんのんさまにおねがいをしに、おおたにまで行ったの」
「まあまあ、あんた一人で?」
「うん、一人で行ったの。そしたらね、道が分からなくなって、どうすれば良いか分からなくて、泣きそうになってるところに、おじさんが助けてくれたの。おじさんが、どうしたの? どこでも連れて行ってあげるでって、声をかけてくれたの」
「まあ……そうやったの……。健造さん、優しかった?」
「うん。とってもやさしかった。ずっといっしょに、うめかんのんさまさがしてくれたの。それでね、やっと見つけてね、二人でお願いしたの。かんのんさま 、おばあちゃんの病気をなおしてくださいって。またおばあちゃんが元気になりますようにって……」
「美佳……」
 自分の体温を確認するように、頭部をぐいぐいと胸に押し付けてくる孫の熱い身体を、そっと抱きしめる。
「ねえ、おばあちゃん、もう病気よくなった? また元気になるの?」
 目に涙をいっぱいに溜めて、美佳は自分を見上げている。
「ええ。もうすっかりだいじょうぶよ。また元気になって楽しいこといっぱいできるえ」
「あたしね、おばあちゃん、死んじゃうかと思ったの……。おばあちゃん、死んじゃったら……あたし……あたし……」
 それ以上は声にならずに、うえ~んと声を上げて、泣き出してしまう。ひっくひっくとしゃくり上げながら、自分の身体に全身でしがみついてくる美佳を、しっかりと力を込めて抱きしめる。
「美佳、美佳、ごめんね……。心配かけて、ごめんね。あたしは、死なへんよ。大丈夫、わたしは、死なへん。ず~っとあのお家で、あんたのこと、待っといたげるさかい……。おばあちゃんただいま~言うて、走ってくるあんたのこと、いつまでも待っといたげるさかいな……」
 ひくひくと嗚咽を続ける孫の小さな身体の鼓動を感じていると、この子がここ数日味わっていた心痛が、直に伝わってくるような気がして、胸が熱くなる。
 不意に、うめかんのんさまと呼んでいた、あの石仏の優しい微笑みが思い出される。
 数年間に渡って、悲痛な思いを胸に秘めて、通い続けたあの場所……
「美佳、ありがとう。あんたがわたしを、連れて帰ってくれたんやね……」
 あの優しい石仏に、並んで手を合わせてくれている、美佳と、あの人の姿が脳裏に浮かぶ。孫の背中をトントンとしてやりながら、じんわりと滲んだ涙を拭う。
「ありがとう、美佳。ほんまにありがとうね……」
 胸の中にある美佳の頭に、そっと頬を添える。全身を満たす幸福を感じながら、ゆっくりと身体を揺らし続ける。


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