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[小説] 吐いちゃうよ!

 「吐きます、吐きます」

 駅の改札口から一人の男が早歩きで出てきた。彼は手で口を押さえて前屈みになりながらずんずんとこちらに向かってくる。

 「吐きます、吐きます」

 雑踏に紛れた彼の声がだんだんとはっきり聞こえるようになった。彼に道を開けようと道の端に寄った、が、男は進路を変えてこちらに向かって来た。迫り来る男に私は微動だにしなかった。

 「吐きましょうか?」

 男は私の目の前に立って、そう言った。男はこちらにお辞儀をしているような体制になって、禿げ上がった頭頂部にちらほらフケが見えた。たるんだお腹が灰色の服を伸ばしてだらしなかった。

 「吐かないでください」

 「わかりました」

 男はグインと首を動かして空を見た。ごくん、と喉仏が動いた。私は悍ましいものを見るかのような目線を男に向けた。男はそんなことを全く気にせずに、あー、と口を開けて「空っぽでしょう」と言った。酸味のある胃酸のと口臭の匂いが混ざり合って、鼻腔を貫いた。きつい匂いに少し涙目になった。

 男はポケットからラルフローレンの水色のハンカチを取り出して首元を拭った。ハンカチは新品かのように皺一つなく、男が持っているには相応しくないように思えた。

 男はハンカチをしまって、コホンと咳払いをした。これから重大なことを話すみたいに背筋を伸ばして服をズボンに入れた。シャツはズボンに入れない方がいいのに、と思った。

 「私はね、未来のあなたなんです」

 その言葉は耳の穴に引っかかって脳に伝わらなかった。私は石膏像のようにその場に固まった。

 「それを伝えに来たんです、では」

 男はぺこりと敬礼して改札へ引き返していった。背中のたるみが服越しでもわかった。脇のところがじんわりと汗で滲んでいて、こうはなりたくないな、と思った。そして「あぁ、彼は未来の僕だったか。ならひどく言うのは辞めよう」とごく自然に思った。

 瞬間、稲妻が体を貫いたかのような衝撃が走った。男の言葉がようやく脳に浸透し、全身に命令を与えた。

 男の話を聞かなければいけない。

 このまま男を返してはいけない。

 私は走り出し、すぐに男に追いついた。

 「あの」

 男は振り返り、「あぁ、どうしましたか」と言った。確かに言われてみれば自分の面影を感じられるかもしれない。男の顔を見て、自分との共通点を見つけるたびに背中に一筋の汗が流れる。未来の自分が、これなのか、と。

 「どうすればいいんですか」

 男は黙って私の顔を見つめていた。

 「あなたになりたくないんです」

 男は頭をポリポリと掻いて爪に溜まった垢をほじくり出し、その辺に捨てた。

 「さっきしたのはね、忠告じゃなくて開示ですよ。気づいたらこうなってる、ってよりも、前もってこうなると思った方が心構えができるでしょう」

 「そ、そんな。僕は小説家になっていないのか」

 「小説家なんてなれませんでしたよ。というかあなた、そもそも小説を書いてないでしょ。自分だからわかるんですよ。ずーっと小説家になりたい、他とは違う存在なんだって右の穴から出た鼻くそを左の穴に詰める日々ではないですか」

 反射的に鼻の左側を触った。今日は病院へ行って、鼻くそが詰まった左の穴を処置してもらおうと思っていた。キューっと顔が赤らんでいく。全身が透けて、本心が見透かされたかのような、全裸になってこの場に立っているような気がした。

 「では、もう行きますからね」

 男は改札へ向かった。

 ポンピーンという駅のチャイムの音がよく響いた。

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