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獣はコーラを欲す

初夏、とはもう言えないのかもしれない。真夏といっても差し支えないほど暑い日々が続いている。

服は季節によって左右される。長袖の出番は終わりを告げた。これから9月の下旬に入るまで、もしかすると10月に入るまで、長袖が箪笥から引き出されることはないだろう。冬、春を共に過ごした彼らに感謝を込めて手を合わせよう。ありがとう。

夏。季節の中で最も好きなのが夏である人は多い。夏の醸し出す雰囲気、レジャー、風鈴やかき氷などの象徴物、田舎とか青春という概念など、夏の持つ魅力は数えきれない。かくいう私もその一人だ。

そんな夏が好きな私はアイスやお菓子、ジュースなどの甘味を摂取しない。意識的にそうしているわけではなく、「食べたい」と思えないのだ。よくこれを人に伝える時、「体に悪い野菜を食べたいと思うか」と聞く。お菓子などの甘味は、”おいしい”と”食べたい”と思えない私にとって、体に悪い野菜なのだ。



そんな私が、つい一時間前、コーラを手に取った。



コーラ。甘くて黒い炭酸飲料。コカコーラ社が提供する世界で二人しかその作り方を知らないという伝説的な飲み物。普段ペットボトルに入っているところしか見ないくせに、名前を聞くと瓶詰めにされているところが思い浮かぶあの飲み物。ハンバーガー屋やイタリアンで驚くほどのぼったくり価格で提供されるあの飲み物だ。

先ほど甘味に足して魅力を感じないといった私だが、炭酸は魅力を感じないどころか苦手だ。喉や口をパチパチと鳴らす刺激物を好んで摂取するマゾヒズムを私は持ち得ていないし、地球の二酸化炭素を減らすために体内に閉じ込めておこうという献身的な環境保全の心も持っていない。

そんな甘味と炭酸、この二つが揃ったコーラなる飲み物を私が飲むなんてあり得ない。そう、思っていた、あの時までは……



照りつける太陽は私の思考能力を著しく低下させた。滴る汗が理性を奪い、はるか遠くから降り注ぐ太陽の光が哲学を奪い、アスファルトに反射した熱が誇りを奪った。私は、夏の太陽の元で本能のままに動く獣となった。

本能に生きる獣は甘味を求めた。ガリガリくん、アイスクラッシュ、カルピス、コーラ、モナカ…次々に連想される甘味の数々に獣は涎を垂らした。

獣は近くの生協に向かおうと方向を定めて、一歩目を踏み出そうとした。

瞬間、私の誇りが煌めく星のように再び現れた。そうだ、私は、この甘味を摂取しないこと自分に対して誇りを持っていた。

友人、知り合いたちが美味しそうにお菓子やアイスを頬張る中で「あ、おれお菓子食べないんだよね」という自分に陶酔していた。

お菓子を食べないことは、最初はただの事実だった。それがいつからか、私のアイデンティティの一つに変わってしまった。私はお菓子を食べないことで自己を保っていた。そんな自分の脆さに、私はこの夏の日、気づいてしまった。

獣はどんどん存在感を増していく。甘味、甘味が欲しい。炭酸が喉、口の中で弾ける感覚を想像する。パッチ…ンパッチ…ン、パッチン…。獣はマゾヒズムとタッグを組んだ。私は想定される炭酸の刺激に快感を覚えた。


誇りなど、とうに捨てた。


獣は生協へ向かった。


整然と並べられた色とりどりの炭酸飲料を見て、その美しさにうっとりした。ルビー、サファイア、エメラルドに匹敵する美を持つこれらが、たった150円前後で手に入るなんて。

獣はひったくるようにコーラを手に取り、そしてすぐにレジに向かって購入し、外のベンチに座って封を開けた。



プシュッ。



生まれた。

その産声に全身が震えた。それは新たな生命の誕生だった。世界の祝福を一身に受けた神の子が今、私の手元に現れたのだ。

私はそっと鼻を近づけた。官能的な甘い香りが鼻腔を貫く。右目からツーッと一筋の宝石が落ちてきた。私はそれを指の腹でぬぐい、そっとベンチに置いた。

唇を小さな円につける。全身を動かしてペットボトルを上に傾ける。口に注がれる完成された美、人類の叡智。私は今、神の恵みを享受している!




ンゴホッ




……オエッ

ガッ



(スー……)



ゴホッゴホッ






二度と飲むまい。コーラなんて。

私は人間に戻った。



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