人のために

「しょうがないけん
おたいが、がらるっけん」
(しょうがないな、ぼくが、叱られるだろう)
底は日本一の人形師の街。大阪。

ー-世は幕末。「またしても残酷な人形だ」
おたいー松本は、人形絵師をしていた。

「松本くん売れましたよ」
ー-見世物の興行が終わると打ったそして。それをくりかえし
日本の首都東京へついた。そこで商売を始めた。だけ度思った

「ねえ先生私の義足を作ってくれませんか」
結論から言うと作れなかった。
なんで。
ー-思えば、五味仙道子というものがある。
それは、東洋医学にもとづいた医学に人形だ

ー-いろんな人形がある。だけどその中から。
そして、維新後の日本においてで大学へ人形を打った
一回目のパリ万博ではなく。
わたしの人形がいったのは
二回目のオーストラリア。ウィーン万博だった

それから大学から依頼された品人体模型を作り出した
楽しくなかったとはいわない.事実楽しかった、、、でもこれが間違いだと後にしることになる

ー-それから作ったそれは、病身の人間を描いたもの
「よしこれを、シックスドールと名付けよう」
それは、後にムラ―ジュという名前であることを知る
だが、今はいい、、、。
「もともとそれができる実力はあった、、、生きた人間に見せる生き人形の腕があれば。病気の人間でも、。人体模型でも作れるさだが、、、」

ー-裏切られたいや、裏切られたというのは性格ではないな。
わたしに模型ヲ作れといった大学それが、、、。
クスリ害事件を先導した大学だった。
「ああそうだ」だからやめようてっいったのに、聞いてくれなかった

ー-「九、、、苦しい首が」
「頭が」
それどころかそれを黙殺した、何が正しいかわからない
「そんな、結果などない」
倒れていく。二つ首の子供。手足が折れ曲がった子供
見ることは見ただが、見世物のそれとは理由が違う

「見世物なら、そんなのはとっても少ないしそれにあったとしても見られてもいいというずぶとさがあるが」
ああ本当にただ苦しがってるだけだ
「うわあああおばあちゃああん」
それは、俺が信じた明治政府や、おたいが協力した医学によるものだった。

^--のちにその事件は「ライフ」と呼ばれる薬害事件だった

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