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室井光広日録(9)

2005.12.25(日)くもり。癸未
(前略)
学生たちの作文をよんでショックをうける。わずか20名足らずの中に、自殺をはかった云々の者が少なくなかった! 臨床的位置をあらためてかくにん。

母から、ハナシをひき出さねばならない。さいごの聴取。民俗学者たちの<研究>をやんわりとおしのけて。ただ、想いだせばいいのだ。血に流れているものを。
バッタリ――民俗学者たちが研究するそれは、イワシの生家の上手にあった。(cf.『山の人生』の主人公が使っていた?)

ポエジーと民俗と世界文学と。この三つの世界に架橋する。寺子屋の黒板の下ノ畑でソレらを耕す。
詩を書く詩人、民俗学者、小説を書く作家たちのサークルよ、さようなら。それらのサークルの中に、下ノ畑は無い。

ノートを作って授業にのぞむのは正しい。当然のこと。だが、それに頼ってハナシをしてはならない。それでは、何かをハナス(放す)=解放するいとなみにつながらない。
ノートの棒読みをきかされる側のタイクツさをおもいみよ。(学生時代のことを想起せよ。)
何かを必死で想い出しながら(書くときと間合い、速度はちがうが)語ること。絶句したところで、話題を転じればいい。
転じられなければ、聴く人に問いを放てばいい。(それもハナシ)

バッタリ、とハッタリ。バッタリのような、ハッタリに近いおどろかしの装置。それを作動させながら、コメツキのようなことが結果的にできれば…。

・・・・・・
「バッタリ」は、水車に近いものらしく、水力を利用して(ししおどしみたいな感じで)コメなどをつく装置。かつては、山あいの田畑地帯の小川沿いに「バッタリ」小屋がよくあったそうだ。
室井さんはいつも〝血に流れているもの〟に必死に集中しながらハナシを放していた気がする。「世界文学」の講義でさえそのように話をハナス。語り=騙りとしてのハッタリではなく、話し=放しとしての,
聴く者をハッとさせるハッタリだった(?)。(2024.2.8)

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