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私がデモに行く理由

よく「デモで何か変えることができるのか?」ときかれますが、まず第一に変わるのは自分自身なのだと思います。ひとりひとりが変わることによって世界は変わるのです

#デモも日常の一場面

最近になって、やっとフランスや香港など、海外の大規模デモがニュースで取り上げられています。それなのに、自国でのデモや集会についてきちんと報じるマスメディアはまだまだ少ない。
たとえばヨーロッパの市民のように、日本ではデモや抗議を日常的なものと受け入れていないようです。デモで声を上げたりするのは、特別な活動家のような人や一部の不満分子という認識がいまだに根強いのでは。

#失われた幻想 、傷ついた過去と未来


そういう私も、3.11以前には自分がこんなに頻繁にデモにいくなんて想像
していませんでした。
3.11という日付変更線を境に、この世界はがらりと位相を変えてしまいました。「凡庸で怠惰ながらも強固だった日常」という幻想は失われ、その代わりにどこかひりひりとした「日常であろうとする仮の生活」が始まったのです。一見すると同じようではあるものの、私たちはとても危うい不確定な世界に身を置くことになりました。
特にロングスパンでもごく近いことでも、未来というものがにわかには思い描けなくなってしまいました。これがどんなに不幸であるか、実際に経験
してみるまで考えも及びませんでした。
私たちの時間は過去も未来も傷ついてしまったのです。
ただ、ひたすらいてもたってもいられない危機感から、今もなおデモや集会に通っています。


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#自分が行けなくても誰かがそこにいる

数年ほどデモ活動を続けていると、こちらが望んでいなくても、だんだんと「あの人はデモの人」というキャラが周囲に定着していくものです。
好意的な励ましの意味で「えらいね、すごいね」といわれても、そこで話が止まってしまう。自分とはちょっと違う人としてカテゴライズすることで、距離をおこうとしているように感じられることもしばしば。

デモや抗議ですべてが解決する、世の中変えられるとはみじんも思って
いませんが、これは両輪の輪の片方であり、あきらめずひたすら杭を打ち
続けるしかないのだと思っています。
自分が行くことで他の誰かの分の声も上げているのです。
私が最初に参加したのは、2011年秋の反原発大規模デモ。
はっきりと当時86歳の母に頼まれた代理のつもりでした。そして出かけた
そのデモの場で、同じようにいてもたってもいられずに来てみたという、
何人かの知人たちと出会いました。
そこから互いに連絡を取り、協力して情報を分け合い、デモや集会に参加
するようになったのです。以来SNSを通じて、同じ思いの仲間たちの輪も
さらに広がっています。それぞれ忙しい中で、少しでも時間を見つけては
デモに参加する。
「自分が行けない時も、仲間の誰かが行ってくれている」という実感
持てるようにしています。継続していくためには、この「心強さ」が、
何より大事だと思っています。

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#生活者としての意識を変える

そして、もう一方の大事な輪は、日常生活の中で、みんながそれぞれの立場や環境で、既成の価値観や意識を変えていくために行動することです。
私自身にできることは、よりよい生活者であるためにライフスタイルの改革からコツコツやっていくしかないと思っています。
時間のかかる改革ですが、政治家ではなく生活者だからこそできる、とても確実な市民運動です。
たとえば「原発がなくても電気は足りている」という事実を証明するために、少ないエネルギーで日々を暮らすこと。たとえば、大量消費を前提と
した価値観を見直して、美的に節約したりリサイクルの工夫をすること。
私が標榜する都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」は、そのひとつのモデルなのです。おいしいごはんを作るのも、友人たちと食卓を囲んで大いに語り合うのも、デモに行くことと同じです。いつも一人の市民、生活者としてデモの場に立っています。

#一番むずかしいのは身近な人たちとの対話

政治に関心がなくても、この社会で生きている限り、無関係でいることは
できません。

選挙のたびにうちのめされるのは、身近な人間関係の断絶です。
SNSでの呼びかけや、トークイベントなどでの未知の人との対話、デモや
集会での不特定へ向けてのスピーチ、などは有用な手段には違いないのですが、実は意見を共有する同士のやりとりなので、案外楽だし、たやすいことなのです。
本当に難しいのは、自分が属しているコミュニティーの、つまり利害関係を及ぼす人たちとの対話です。たとえば、同じマンションの隣人、会社の
同僚、仕事仲間、そして何よりも家族との対話です。

一番身近な人たちとの社会や政治について話すこと。
私が経験上知っているイタリアに比べて、決定的に足りていないものの
ひとつです。彼らはバールや仕事の休憩時間、家族団らん、路上の立ち話
でさえ政治的、社会的な話題を持ち込みます。
テレビ番組も大半がトークショー、朝まで生テレビみたいな番組ばかり。
日本人から見れば、思ったことを何でもいい合う、ズケズケした非常に
ウザイくらいの社会です。
でも、この「社会の問題を自分のこととして常に隣人と共有する」というベースがあるからこそ、デモや抗議行動が日常化し、何か事が起これば、
互いに支え合うことができるのです。
選挙の前に「誰に投票するか」を話題にするのは憚られる、といった社会の空気とは大違い。この違いを埋めるのは大変ですが、変えていくしか
ないのです。身近な人との対話、自戒を含めて考えています。

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デザイナー、美術家、料理家。イタリアはヴェネツィアに通い、東京においても小さなエネルギーで豊かに暮らす都市型スローライフ「ヴェネツィア的生活」を実践しています。ヴェネツィアのマンマから学んだ家庭料理と暮らしの極意を伝えます。