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2023.5.29 Michael Head & The Red Elastic Band @Shangri-La

いわゆる「ネオアコ」について言えば、僕は完全に「遅れてきた者」だった。大学生のときに洋楽を聴き始め、アズテック・カメラあたりから入ったがそのときにはすでにマーク・ノプラーのプロデュースによるセカンドが出ていて、初めてリアタイで買ったアズカメのアルバムは「LOVE」だった。思い入れのある好きなアルバムだが厳密な意味ではもはやネオアコではなかった。

オレンジ・ジュースも現役時代にはまったく間に合わなかった。CDを手に入れるのがすごくむずかしかった時期があり、確かロンドンで買った「RIP IT UP」だけを繰り返し聴きながら、これってネオアコなのか、とずっと疑問に思っていた(結論をいえばネオアコじゃなかったと思う)。

ペイル・ファウンテンズも気づいたときにはバンドはもうなかった。社会人になってから三宮の中古盤屋で2枚のアルバムのCDをなんとか手に入れた。僕にとってはこれこそがネオアコだと思ったが、とにかく情報が極端に不足していたし、シャックのアルバムはなかなか手に入らなかった。

それでもドイツに住んでいる間に、マリナ・レーベルからペイル・ファウンテンズのレア・トラックス集(小西康陽のライナーノートが載ってるヤツ)とシャックの幻のセカンドがリリースされ、たまたま訪れたロンドンのヴァージン・メガストアではストランズのCDを見つけてレジまで走ったのを覚えている。1999年に「H.M.S. Fable」が出てNMEで絶賛されたときには泣いた。

その後も浮き沈みを繰り返しながらマイケル・ヘッドは歌い続け、僕はその音楽を追いかけ続けてきた。帰国してシャックのファーストも手に入れ、シャックからレッド・エラスティック・バンドへと、マイケル・ヘッドは断続的にではあれアルバムを発表してきた。しかし、彼の音楽を日本にいながらライブで聴く機会がめぐってくるとは思っていなかった。

この日、僕は仕事を早めに切り上げ、下北沢に向かった。生きて動くマイケル・ヘッドが目の前で歌っている。歌っているどころか狂ったようにアコギをかき鳴らしている。もうそれだけで言うことはなにもなかった。しかしマイケル・ヘッドは確実にそれ以上のものを聴かせてくれた。

まずなにより、この日のマイケル・ヘッドは終始ニコニコして上機嫌だった。一筋縄では行かない音楽人生を歩みながらもその都度なんとかシーンに復帰し、結局ペイル・ファウンテンズからすればほぼ50年歌い続けてきた彼が、とにかく今ここで、遠く極東の街でバンドとともに音を鳴らし、今夜もまた声を張り上げて歌うことのできる喜びをストレートに表現していることが本当に奇跡のようだった。

それはまたその場にいた聴衆の多くも同じ思いだったと思う。多くの人は長く、おそらくはペイル・ファウンテンズのころから彼の音楽を聴き続けてきたのだろうし、彼の来日を知って下北沢まで足を運んできたのだ。マイケル・ヘッドの50年は僕たちの50年でもあった。だからこそこの日マイケル・ヘッドがたからものを好きな子に見せびらかす子供のように嬉しそうに、愛おしそうに演奏する姿が僕たちの心を打ったのだ。

昨年リリースされた最新アルバム「Dear Scott」からのナンバーが素晴らしかった。決して派手ではないが要所にトランペットを配し、マイケル・ヘッドのソングライティングの広がりや奥行きがしっかり表現されていた。独特の起伏のある美しいメロディをマイケル・ヘッドは丁寧に歌い、それらの歌が2020年代という時代にしっかり足場を持つものだということを印象づけた。

だからこそ、そこで同じように演奏された『Reach』や『Jean's Not Happening』、『Comedy』もまた胸に迫ったのだ。そこにはひとつながりの音楽の輝きがあり、リリースがない時期にやきもきしながらニュースを待った日々も含めて、彼の音楽によって縁どられた年月があった。すべての音楽はひとつまたひとつと積み上げるように鳴らされ、奏でられ、歌われた。それは初めて彼の音楽を聴いたときから今に至るまで、決してとぎれることのない時間の流れであった。僕たちはそれを聴いていた。

もうひとつ思ったのは、もう何十年もアルバムだけで聴いていた曲が、実際にライブで演奏されると、アコースティックな曲ですらこれまで想像していなかったダイナミズムをもって直接胃の下あたりにガツンとくるんやなということ。CDはいつでも聴けるし、これからもたぶん聴き続けるが、実際に手に持ってみて初めてわかる重さのような、彼の音楽のライブでの重量感みたいなものを体感できたことは本当にラッキーだった。

僕にとって2023年という年は、マイケル・ヘッドを下北沢で見た年として記憶されることになった。それは大げさにいえばこれからもずっと僕自身を温め続ける自分のなかの熱源になるできごとだった。

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