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杉真理 ライブ・レビュー 2024.3.13 渋谷 PLEASURE PLEASURE

杉真理は「あらかじめポップスに祝福された男」だと思っている。メロディメーカーとしての稀有な才能、シンガーとしてしっかりと記名性をもちながらも聴きやすく艶と張りのある声と歌唱力、古今の音楽に対する深い造詣と愛情に裏づけられた構築力と構成力。高校生のころに彼の音楽を知ってから、それはずっと僕の傍らにあった。

考えてみれば歌というのはヘンなものである。ふだんの言葉遣いを敢えて伸ばしたり縮めたりしながらイントネーションやアクションを変えて妙な抑揚で謡う行為、それは僕たちのふだんの生活からすれば奇妙で異様な所作であるはずである。

しかし、ほとんどすべての文化は音楽をもち、人々は自然に歌を発見する。「文字をもたない民族はあっても音楽をもたない民族はない」ともいう。音楽は、歌は、我々の心性のどこか深いところに直接根ざしており、それは日々の泡のような生活の中でなにがしか代えのきかない役割を果たしている。それは間違いのないことだ。

もちろん音楽はうきうきと楽しいものばかりではない。怒りの歌、嘆きの歌、悲しみの歌、鎮魂の歌。音楽が我々の感情の動きの直接の写像である以上、そこにはさまざまな心のありようがそのまま反映されるのもまた当然である。

杉が書き、歌う歌にもさまざまな思いが映りこんでいる。しかし杉が一貫して歌ってきたのは歌を作ること、歌を歌うことの喜びであり、それはそのまま生きることの喜びである。メロディに対する信頼であり、歌が歌えることへの感慨である。楽器を奏で、仲間と息を合わせてひとつの音楽を作りあげることの楽しさである。

杉は音楽が好きなのだ。すべてはここから始まり、ここに収斂して行く。それが杉真理の音楽だ。

杉の音楽は最も深いところで音楽の本質に根ざしている。それは神に許された使徒だけがなし得ることだ。あらかじめポップスに祝福された男だけが喜びと楽しさに満たされた音楽を作り、歌うことができる。生きることの喜びをまるごと音楽として真空パックすることができるのだ。

だからこそ僕たちは杉のライブで笑い、泣き、ともに歌う。それは、そこにあるのが生きることそのものだからだ。生きることはときとして困難であり、ときとして哀しく、ときとして空しいが、それでも総体としての「生」そのものは肯定されるべきものであり、祝福されるべきものであり、楽しまれるべきものである。杉の音楽はそのことを僕たちに繰り返し教えてくれる。音楽にはそれだけの力がある。

この日のライブでも、明日古稀の誕生日を迎えるという杉は、宝ものを見せびらかす小学生のように惜しげもなくレパートリーを披露し続けた。ビクター時代のアルバム「SWINGY」のタイトル・トラック(インスト)で幕を開け、12インチ・シングルのカップリング『ON THE B SIDE』のようなレア・ナンバーも演奏された。本当は持ち歌全部歌いたいくらいの勢いで次から次へと繰り出される曲はどれも、2024年という時代のなかでも驚くほど自然に空間を占めていた。

そのことは鈴木雄大が歌った『Heaven In My Heart』や松尾清憲が歌った『君は天使じゃない』にもはっきりと表れていた。杉が彼らのために選んだというそれらの曲は、初めから彼らのために書かれた曲のように生き生きと歌われ、そのメッセージは今、ここで新しく生まれたもののように胸に響いた。それは杉の書く曲がいかに幅広い間口と深い奥行きを具えているか、いかにあらかじめ普遍的であるかということにほかならない。

杉真理のライブが楽しいのは、そこに音楽に対する限りなく純粋な愛情と信頼があるからだ。純粋な愛情と信頼は古びたり色あせたりしない。あらかじめポップスに祝福された男はこの日も会場のなかのだれよりも自ら楽しそうだった。

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