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2023年5月「多摩川決壊の碑」と二ヶ領用水

ゴールデンウィークのお出かけシリーズ、今日はヴェスパに乗って東京都狛江市の多摩川水害の現場と、それとも関係が深い神奈川県川崎市の二ヶ領用水をまわってきた。まずは狛江市にある「多摩川決壊の碑」を見に行く。

1974年8月31日、台風16号が関東地方に接近、これに伴う大雨で多摩川は増水していた。小田急線の多摩川橋梁のすぐ下流には二ヶ領宿河原堰という固定式の堰があり、ここでせき止められた濁流が、堰を支えていた左岸の小堤防を圧にまかせて破壊、堰を外から迂回するかたちで左岸を削り始めた。

せき止められ行き場を失った水が、左岸に開いた流路に一斉に流れこんだため、この迂回流は勢いを増しながら容赦なく左岸を洗掘し続け、9月1日、ついには本堤防を決壊させて、堤防間際まで建てこんだ住宅地を浸食、一軒また一軒と民家が倒壊し、濁流にのまれて下流へと流されて行った。

住民らは事前に避難していたため犠牲者がいなかったのが不幸中の幸いではあったが、マイホームが目の前でなすすべもなく濁流に運び去られるのはショッキングな光景であっただろう。この光景はテレビで生中継され、全国に大きな衝撃を与えたという。

迂回流を緩和するためには、中央で水をせき止めている堰を切るしかない。数度の試行の後、9月4日に堰は爆破により破壊され、水が川の中央を流れ始めてようやく左岸の洗掘は勢いを弱めたが、このときまでに19軒もの民家が流失した。

多摩川決壊の碑。狛江市の多摩川河川敷。

このとき濁流に洗われた河川敷には現在「多摩川決壊の碑」が立っている。この場所は多摩川の水位が上がれば水没するので、その時には碑は外されて別に保管されるのだという。「決壊の碑」が流失しては洒落にならないということなのだろう。

堤防は復旧され、流失した家屋の跡地にはいまではまた家が建ち並んでいる。爆破により破壊された堰はやや下流に再構築されている。この水害での苦い記憶を教訓に、現在の堰は水位に応じて流量を調整できる可動堰となっており、2019年10月の台風19号で多摩川は堤防の天端ギリギリまで増水したがこの地点での被害はなかった。

多摩川の二ヶ領宿河原堰。左岸から。

これが現在の二ヶ領宿河原堰である。天気もよく水が気持ちのいい音をたてて流れていた。

ところで、そもそもどうしてこんなところでわざわざ多摩川をせき止める必要があるのか。それは水害のあった左岸、東京都側ではなく、右岸、神奈川県川崎市側の事情によるのであった。

江戸時代、現在の川崎市内の農地の灌漑のため、多摩川から取水した二ヶ領用水(にかりょうようすい)という農業用水が作られた。当時の多摩川は流量も豊富であり、川べりに取水口を設けておけば分流で自然に取水できたのであるが、その後沿岸の開発が進み水の需要が高まるにつれて多摩川の水位は下がり、自然流入だけでは取水がむずかしくなってしまった。そこで多摩川に堰を設け、人為的に水位を上げて取水口に水が流れこむようにしたのである。

二ヶ領用水の取水口は二か所ある。ひとつは京王多摩川線の多摩川橋梁から1.5kmほど下流の二ヶ領上河原堰に設けられたもの、もうひとつがそこより下流にある上記の二ヶ領宿河原堰に設けられたものである。この二つの取水口から取り入れられた水は今日でも川崎市内の田畑をうるおしているといいたいところだが、川崎市内はすっかり都市化、宅地化してしまい、農業用水としての意義はあらかた失われた。

多摩川のニヶ領上河原堰。右岸から。

これが上流にある二ヶ領上河原堰である。写真手前にフェンスを張った分流の入り口が見えるがこれが二ヶ領用水の取水口である。堰によって多摩川の水位を上げ、取水口から用水に水が流れこむようにしているわけだ。ここからは二ヶ領用水の見どころをたどった記録になる。

多摩川の取水口から二ヶ領用水を下って行くと、ほどなく三沢川という川と出合う。川や用水など二つの流れが出合えばそこで「合流」するのがふつうであるが、ここでは二ヶ領用水と三沢川が「交差」している。

三沢川。上流側から下流を臨む。

これは三沢川を上流から見た写真である。目の前に見える橋が二ヶ領用水の側道でありここで用水と「交差」しているのだが用水は影も形もない。水道橋のようになっているわけでもない。三沢川はなにくわぬ顔をしてこのまま奥の多摩川に流れこむ。

二ヶ領用水。多摩川から取水して奥に向かって流れる。

一方、二ヶ領用水はこんな感じで流れている。画面手前が多摩川の取水口側、水は奥に向かって流れている。三沢川よりも水位が高く底も浅そうである。奥の橋のところが三沢川との交差部の「入り口」である。

二ヶ領用水。三沢川との交差部下流側。

こちらが二ヶ領用水の交差部「出口」である。この入り口と出口のあいだを三沢川が分断しているわけであるが、ちょっと見ただけでは、用水の水がどうやって三沢川とクロスしているのかわからない。

実際には用水は「伏せ越し」と呼ばれる工法で三沢川の下をくぐっている。入り口部分から低いトンネルに水を落としこみ、出口部分では逆サイフォンの原理でもとの高さに吹き上がった水をそのまま下流に流しているのである。このへんはちょっとした親水公園みたいになっていて、親子連れがくつろいでいたりするのだが、ここがそんな大がかりなしかけのあるエモいスポットだということを果たして知っているのだろうか。

さて、こうして無事に三沢川をくぐり抜けた二ヶ領用水は、川崎市内の田畑に水を供給しながら東に向かって流れて行く。最終的には多摩川に合流することになるのだが、ところによっては桜並木になっており、地域の人に親しまれているようである。これを安易に暗渠化せずに保全している川崎市はなかなかいいところがある。

これをさらに下流へとたどって行くと、もうひとつのハイライト、久地円筒分水に着く。まずは見ておこう。

久地円筒分水。

巨大な湯飲み茶碗を伏せたような格好をしているがこの形にはちゃんと理由がある。これはここまで流れてきた二ヶ領用水の水を、いくつかの分流へ正確に分配するための施設である。二ヶ領用水の水は、先ほどの三沢川との交差部と同様、逆サイフォンの原理を用いてこの分水槽の中央に導かれて下からわき出し、これが円形の水槽の縁からあふれ出す際に、外縁部に設けられたコンクリートの仕切りによって常に一定の比率に分配されるという仕組みである。

円形の水槽の外縁に沿って、全部で四つの仕切りが設けられているのが写真からわかるだろう。わき出す水はこれによって水利権の比率に分配されて分流へと流れ出して行く。かつて特に渇水のときなど水の公平な分配をめぐって深刻な係争が発生した。農業者にとって水が得られるかどうかは死活問題なのだから当然である。

それをだれが見てもフェアに解決するための方法として考案されたのがこの円筒分水であり、日本でも各地に見られるが、この久地円筒分水が最初のものといわれており、規模的にも大きく代表的な分水槽である。1941年に作られ、いまもまだ現役で水を公平に分け続けている。

中央の水槽からは尽きることなく水がわき出て縁から四方にあふれ出している。周囲はちょっとした公園になっており、ベンチなども置かれていてけっこう人もいた。ヴェスパを停めて写真を撮っているあいだにも、他に写真を撮っている人、案内板の説明文を読んでいる人、ベンチでくつろいでいる人など憩いの場になっているようだった。

用水系はハマると奥が深そうなので気をつけないといけないが、昔から水道橋とか水路トンネルとか大好きだったんだよな…。昼に登戸で食べたニュータンタンメンがおいしかった。

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