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ザ・コレクターズ ライブ・レビュー 2024.4.14 日比谷野外大音楽堂

野音は初めて。改修のため近々閉鎖されることになっているらしく、もしかしたら最初で最後の野音になるかもしれず、この機会に来ることができてよかった。考えてみれば武道館もコレクターズが初めてだったし、なんなら東京ドームも彼らのために行かずにとってあるのだった。

よく晴れた日曜日で暑いくらいの陽気。ヴェスパで日比谷公園に乗りつけた。コレクターズでモッズを知り、それにあこがれて買ったヴェスパ、今日乗らないでいつ乗るのかくらいの決意で家から1時間強飛ばしてきたが、日比谷公園の地下駐車場にはいかにもそれっぽいデコヴェスパが5台ほど停まっていたほかはガラガラ。コレクターズのファンはもっとみんなヴェスパ乗ってるんだと思ってた。

16時開演ということでだんだん暮れて行くなかでのライブ。みんなライブ中にも思い思いに席を立っては売店でビールを買ってくるような、野音ならではの開放的で自由な雰囲気がフェスぽいというかジャンボリーぽくて気分がいい。

その抜けのいい雰囲気のなかで聴いた『パレードを追いかけて』にはちょっとグッときた。大学生のころにコレクターズを聴き始め、就職してすぐに「ぼくを苦悩させるさまざまな怪物たち」が出て、『まぼろしのパレード』をなんども聴きながらサラリーマンとして働きつづけてきた僕の35年間はまさにずっとパレードを追いかけてきたのであり、そしてこれからも僕はそれを追いかけて行くのだと思った。

あまり熱心に聴かなかった時期もあるし、アルバムにピンとこなかったこともあった。それでも僕はコレクターズの新譜が出るたびに買い続け、二度の武道館にも足を運び、やはり見られるライブはなるべく見ておこう(なぜならもう次は見られないかもしれないから)と思うようになって直近のライブを確認したら野音だったというのもなにかのめぐりあわせなんだろう。

加藤の書く曲は僕の頼りないケツをけとばし続け、時間だけは流れたけれど、いろんなものの姿は変わったけれど、そこにあったものは結局なにひとつ変わってなんかないということを僕に教え続けてきた。そう、パレードは続いて行くのだ、どこまでも。

もうひとつ印象深かったのは『お願いマーシー』だ。新型コロナウィルスのせいで外にも出られず、ライブもできず、世界中の街から音楽が消えて自分の部屋をライブハウスにせざるを得なかったあの時期、それはまだほんの2年とか3年前のことだ。過ぎ去れば簡単に遠い過去のことのように思うが、この曲はあのときの閉塞感、やり場のないいらだちを鮮やかに思い出させる。

僕たちのあたりまえの日常が、音楽のある生活が乗っかっている基盤のようなものがどれほどもろくてはかないものに過ぎないのか、想像もつかなかったような非日常がどれほどすぐ近くでぽっかり口をあけて待っているのか、そして一度それに呑みこまれてしまうと元の生活をとり戻すのがどれほど大変なことなのか、僕たちはあのときに知ったはずなのだ。だからこそリーダーはこの曲を歌い続け、コータローはマーシーに代わってギターを鳴らし続けるのだ。

日常がある日突然一変してしまう恐怖は『NICK! NICK! NICK!』でも明らかだ。今ほどこの曲が必要とされた時代はなかった。ロシアがウクライナに侵攻してその領土を切り取ろうとし、イスラエルがテロ対策を口実に福岡市よりも広い土地を人間もろとも整地しようとしている2024年、だれと戦うのか、なにと戦うのか、なぜ戦うのか、そしてだれが戦うのか、その問いはもはやどこか遠い世界のものではないのかもしれない。

ライブで定番のビート・チューンがそのような問いかけや憤り、怒りや祈りをたたきつける曲であるのは決して偶然ではないし、この曲を大声で歌える社会を守り続けることが、この曲でこぶしを振り上げる僕たちの引き受けた最低限の覚悟なのではないかと思った。

アンコールの『僕の時間機械』をやり終わるころには日はとっぷりと暮れ、ヴェスパで帰る新宿通りは寒いくらいだった。特別な日だったが特別な日ではなく、それはパレードがいつまでも続いて行くからで、僕がそれをどこまでも追いかけて行くからだ。

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