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心を整え、鍛えるということ【白血病】

 11月17日~19日の期間、主治医の許可をいただき、2泊3日間帰宅(外泊)することができた。先生たちの言葉尻を捉えれば、『死ぬ前の最期の顔見せ』という要素を多分に含んでいることが分かる。
 それでも家族に会えるならと、与えられた期間は病院を離れ、自宅で過ごすことができた。

▶外泊期間の出来事

▷外泊前に…

 当初は家族との時間だけでも十分だと思っていたが、金曜午後から日曜夜までの約54時間、もっと多くの人に会いたいという欲がムクムクと大きくなってきた。

 インフルエンザ等の感染症回避などの観点から、人ごみを回避しなければならない身なのに、「帰ります。会いたい人は連絡ください」という圧倒的矛盾をはらんだ投稿。そして連絡してくれという上から目線。振り返ればどんだけ不遜な物言いかと恥ずかしくなる。病室に戻ったいま振り返ると、たぶんそんなことも気づけないくらいに、外泊できるという事実に浮足立っていたのかもしれないと思える。

▷外泊初日

 1度病院から自宅に帰宅し、ひと息ついて昼食を食べ、まず最初に職場に状況の報告に伺った。人事、現部署、前部署、気にかけてくださる上司、先輩、同期、後輩、それぞれに必要な説明をした。その反応は十色だが、しっかり話を聞いてくれた。久々に病院外の人と話ができたのでついつい話に夢中になってしまい、妻から倒れているのではないかと心配されるほどに鬼電されていた。

 職場から自宅に戻ったころにはすっかり日も傾き、娘の迎えを妻に任せ自宅でひと休みさせてもらった。西日の強いリビング、よく引っかかる自動掃除機、いつもかごからあふれかえってしまう娘のぬいぐるみと腹筋ローラー。クッションに頭をのせてゴロゴロしながらその日常を見るだけで泣けてきた。本当に病人になってからよく泣くようになったなと思う。

 娘が帰ってきてからも、とても自然な日常だった。まずは遊びまくって土や砂にまみれた服を脱がせ部屋着へ、そのまま娘の夕食ができるまで娘の話を聞き、娘の食事が始まったら妻と自分も席に着き、3人で夕食。この日は妻が野菜やキノコ類をしっかり盛り込んだ鍋だった。不思議なものでやっぱりひとに作ってもらった料理は美味しい。娘が大体食事途中で飽きる&眠気がピークになるので横にならせて片づけをちょっと手伝って、娘が本格的に寝てしまう前に妻が娘をお風呂に入れて、就寝に向けて動き回る。
 そうこうしてる内に娘の目が冴えてきて、そろそろ寝ようかというタイミングになってあれをしたいこれをしたいというのに付き合う。金曜日はyoutubeで新しいマリオのゲーム実況動画を見ながらキャッキャと遊んでくれた。

 外泊初日はあまり眠れなかった。我が家は暖かすぎた。静かすぎた。
 この3か月を過ごし、これから移植に向かう病室は3×3mくらいのでかい換気扇が24時間駆動し、常にごおぉぉという音が響いている。遠くでは別室のナースコールが、ベッドサイドには点滴の機械が正常稼働していることを示す緑色LEDでチカチカ。視覚的にも聴覚的にも結構うるさい。
 一転、我が家の寝室は静かだ。妻は本当に早寝だし、娘も寝付けば寝相はひどいが静かだ。弱まってる自分の心臓の音でも聞き取れそうなくらいに音が少ない。静かすぎて耳鳴りがするくらいだ。睡眠環境が劇的に改善された結果、劣悪な睡眠環境におかれていた自分の身体は戸惑いを隠せず深夜まで目が冴えてしまっていた。

▷外泊2日目

 土曜日は冷たい強風が吹きすさぶ好天。「自転車乗りたい」の娘の一言から1日が始まった。前に進んでるのか風に押し出されているのかわからない風の中、歩けば5分ちょいの公園まで大回りして約20分、横断歩道などで交通ルールを確認しながら自転車をこいでいった。
 まだまだ坂道を登れなかったり、ブレーキを握る度に、小さな手がハンドルの端っこにずれていったり、危なっかしい様子はあるものの、以前よりもしっかりペダルを漕げるようになっていた。娘の成長に感動。公園についてからは自転車を置いてどんぐり探し。自転車に着いたポーチに少しずつ入れては次を取りに行く様子は餌を運ぶリスのような愛らしさだったが、早朝の小雨でぬれた滑り台を滑ることだけは全力で阻止した。

 そうこうしている内に、最初のお客さん、大学の友人が顔見せに来てくれた。恐らく娘は人生で初めて見る190㎝サイズの大男達である。
 大学は工学部、電気電子工学という何とも女っ気のなさそうな学部を卒業した自分達は当然のことながら男子高校生みたいな大学生活を送っていた。
 おかげでコース40人、比較的全員仲良く過ごしていた。それでも大学を出てから約10年、久々の再会で正直ちょっと緊張してた。

 巨人2体にひるむかと思ったが、娘は一切臆することもなく理不尽なゲームを仕掛けていき、ふたりをしどろもどろさせていた。大学時代の友人が子どもに振り回されている様子は新鮮で面白かった。一方でふたりから聞く話は大学時代の友人たちの様子。大体のやつが何だかんだ大変ながらも楽しそうにやってるようでひと安心。しかも意外にブログを見ているやつも多いらしいので書くことには気をつけなければと思った笑

 帰り際、ふたりを送る際にやっと少しまじめな話をした。どうにもこういう時は久しぶり感が強くて思い出話ばかりになってしまう。ふたりも自分とは方向性が違うものの色々と大変な状況にもあるようだ。そんな中で10年近くぶりに連絡してくれて、会いに来てくれたことが1番嬉しいということも素直に伝えられた。

お土産で臼杵市のパンロードさんのパンをいくつかいただいた。「何がどうっちゅうわけかわからんけど、うまいんよ」と言われサラダパンを食べてみた。何がどうというのは確かにわからなかったが、シンプルにうまかった。これは家の近くに会ったらいい頻度で買いに行きたくなる味だった。

 パンのお返しに11月からシーズンインした美人鰤の情報を伝えたところ、帰りついでに蒲江まで買いに行ったようだ。ふたりとも釣りを嗜んでるので捌きもいけるらしいので、気に入ってくれればぜひとも1本まるごと食べつくしてもらいたい笑

 そうこうしている内に昼ごはん、みんなでもらったパンを食べながら話していたが、娘は巨人との戦いに疲れたのか、頂いたパンをペロリ平らげそのまま昼寝。
 次のお客さんは親族たち。予定時間までは1時間半位、自分も横になりたかったので、妻にカフェでも行ってくればとそそのかし昼寝。妻が帰ってくる頃に娘の昼寝も終わって親族もぞろぞろと集まってきた。

 賃貸暮らしなので親族が集まるとさすがに狭い。そして赤ちゃん含めて子どもが3人。暖房もいらず、換気しないと熱気がひどいくらいに騒がしかった。こどもが複数いれば当然まともな会話をする余裕なんてない。互いに競うようにはしゃぐ子達を横目にコーヒーを飲みながら赤ちゃんとにらめっこをして、『娘にもこんな時期があったなぁ』と懐かしむ気持ちと4年半の成長でこうも人間になるのかと改めて驚いた。
 最後にやっと少しは落ち着いてくれたので集合写真。当たり前なのだが、改めて見ると自分含めてみんな歳をとったなと、大人になったなと思った。思えば自分が子どもの頃、こうやって家族そろって写真を撮った記憶がないなぁとぼんやりと思い出した。写真の中に親父がいないことは悲しいが、そういう人生なんだと言い聞かせるしかない。

 親族からもらった大量の果物たちをどうしたものかと話しながら夕方に。
 ひとりの先輩から連絡があって、急遽会いに来てくれるとのこと。わざわざ美味しいスイーツまで用意して息を切らせてやってきた。きっと当日の夜に行われたイベントの隙間時間に来てくれたのだろうと思う。
 この先輩、自分には到底まねできないほどの感覚派、行動派の方。いつもその姿にエネルギーをもらっている。

 開口一番、「思ったよりも元気そうでよかった」。これはがん患者さんや重病の方には絶対言ってはいけないワードだと思う。その症状が表に出ているというのは、正直手が付けられないほどに進行している場合も多い。
 先輩ではあるが、きちっとその点は説教させていただいた。笑 自分は先輩のひととなりを知っているから、それが飾りのない、パッと見た時の印象だったのだろうとわかる。それでも何気ないその一言で心を壊される人も多い。尊敬する先輩にはそんな形で人との縁を持ってほしくはない。

 それを伝えた時、素直に謝罪の言葉を返してくれた。生意気な後輩のいいようにも素直に反応してくれるこの先輩は理想のひとりだ。この先も仕事ができるのならば、そういう物事を素直に受け入れられる人間でありたい。
 状況を伝え、力強く握手をしてもらって先輩は戻っていった。右手を通して痛いぐらいに生命力をねじ込まれた気がする。

 この後には幼馴染たちがやってきた。何時に来るのか、何人来るのかも徐々にしか明かされず、到着するまで連絡のひとつもよこさないあたり、いつも通りだなと逆に安心感を覚えた。

 しかしこの幼馴染たち、昨日今日会った誰よりも余所余所しく、何だか居心地が悪そう。娘も夕食時間だったのでご飯を食べていたし、みんな何か言いたそうな、でも口火を切れないような変な顔をしていた。
 なので、こちらから口火を切って改めて現状を伝えた。どうやらあたりだったようで、内ひとりがそこから細かく状況を聞いてきてくれたので、質疑応答みたいな感じで細かく、自分が説明できる状況を伝えた。

 付き合いが長い分、事の重大さをちゃんと理解している分、本当にどう言葉をかければいいのかわからなかった、そんな印象を受けた。
 帰る頃になって思うことを話してくれてよかった。半泣きになりながら見送ったし、半泣きになりながら帰っていく幼馴染たちが鏡に映る自分のようにも思えた。自分が逆の立場ならきっと会いには来れない。かける言葉も思いつかないし、たぶん相手の顔も見れないと思う。でもそれでも来てくれた。そのことそのものが何よりもうれしい。

 帰る前にそれぞれ言葉も交わして、また握手した。先輩と同じように力強く握る人もいれば、優しく包むように握ってくれる人、いろんな人がいて、そういう人が自分を支えてくれていると思えると、とても暖かく感じる。

▷外泊最終日

 2日目とは打って変わって、風もなく比較的暖かい、穏やかな朝。娘に「今日こそ自転車練習にいい日よ!行こうよ」といったら「今日はいい」の一言で最終日は始まった。
 3日目の朝は病院に帰る準備を進めながら、友人が訪れるのを待っていた。今度の方は5年前、妻の提案でキャンプ場で結婚パーティを行った際に司会を務めてくれた方だ。ほかのイベントでちょこちょことお会いすることもあったが、こうやって直接連絡をくれたのは本当にそれ以来じゃないかなと思う。「一体なんだ、あやしい壺案件か?」と妻と笑いながら話していたころに到着したとの連絡。

パーティ入り口と当時の愛車 この後入場時に転倒してウインカーレンズ壊した笑

 家にあがっていただいてからもそのころ以来だろうという話をしたり、当時のパーティは楽しかった、というような過去の話に花が咲きつつ、この日も元気な娘の遊び相手をずっとしてくれていた。
 が、結局何か本質に触れるような話題は特に出なかった。車までお見送りをする中で正直に聞いてみた。確かに5年ほど前に繋がりがあったが、逆に言えばそのくらいのものだ。ブログは見てくださっているようで、自分の状態が非常に芳しくないことをご存じとは言え、このタイミングで会いに来るほどだったのだろうかと尋ねた。

 どうやら、自分とはまた別の形で人生の転換期に立っているようだ。悩んだ結果、人に会う、話をしてみる、意見を聞いてみる。というようなアクションを行っている様子。そういう人生の転換は不安や悩み、苦労が付きまとう。その大変な時期に自分の様子を見に来てくれたことは素直に嬉しい。同じ人生の転換期に立った自分の言葉が少しでも役に立てばと思うし、いつかそういうリアルな大人の悩み座談会みたいなものをやりたいって話になった。この方は女性だが、昨日の幼馴染たちに負けないくらい力強く握手してくれた。

 そこからは、遊び疲れて眠くなった娘を半ば引っ張りながら早めのシャワー、昼食を済ませ、病院に出発する前に妻の実家を訪れた。自分が闘病を続けているこの約2年半、妻と娘は妻の実家で過ごすことがほとんどだった。正直なところ、自分よりもずっと娘の成長を助けてくれている。
 思えば妻に連絡していた分、病状の説明も、感謝の言葉も、迷惑をかけ続けていることへの謝罪も、しっかりと伝える機会を避けていたように感じていた。このまま病院に向かうのは筋が違うと思い、急遽うかがわせていただいた。

 いつもと同じように美味しいコーヒーを出してもらいながら、まずはこれまでの感謝と、病状を自分の口から改めて説明させていただいた。それからこれからの治療の期間、また迷惑をかけること。万が一自分が戻れないときはどうかふたりを支えてほしいと改めてお願いした。
 ふたりともから「家族だから気にしなくていい、その代わりちゃんと帰ってきてほしい」と言われた。血のつながりもなく、実の娘のパートナーでありながら先に死んでしまうかもしれないことには触れず、本当に家族のように接してくれる。本当に救われる。
 そして妻の実家の家族との写真を撮り忘れたことが悔やまれる。それは生き残れたら改めて撮ろうと思う。

 いよいよ病院に向けて出発、だけどその前にもう1か所、寄りたいところがあった。大学時代の友人の自宅だ。そこには友人のご両親はもちろんのこと、熊本から、四国から、東京から、果ては海を越えベトナムから国際線に乗って自分が時間をとれる数10分のために友人が集まってくれていた。

 友人宅への道中の車内、娘はシートで熟睡し、妻とふたりで話す時間ができた。高速道路から見える暮れ始めた夕日、田んぼ、紅葉が残る山合、夕日を受けて金色に光る雲、病院に戻る日にいい日和というモノはないと思うが、今日のような日が過ごせてよかったと、またこうやって家族でのんびりと見たいなと話をした。

 友人宅へ到着、すでにみんな待っていてくれて、自分たちが最後だった。
 友人のご両親にご挨拶。大学時代から本当によくしてくれていて、自分の第3の両親だと勝手に思っている。やっと初めて娘と妻を紹介できたし、共通の趣味である家庭菜園話に花が咲き始めたので、次はもう少し汚れてもいい格好で来た方がいいかもなと思った。

 家族3人、友人5人、友人両親2人、計10名でぎゅうぎゅうになりながら集合写真を撮った。中々カオスな絵面だったが、確かにいまの自分を形作ってくれた人たちの姿だった。
 ご両親は少し外出するということだったので、友人たちと会話。本当に大学時代と変わらないしょうもない話しかできてない。娘に至っては大画面でアニメが見れたのでそれにくぎ付けだった。

 大学時代となんら変わらない時間だったが、大学時代ほど無限のような時間でなく、限られた時間だった。なのでまず、この数10分のために集まってくれたことのお礼の言葉を伝えた。特に空路でくればその移動費だけでも決して安くない。まして自分の外泊が決まってから直前の予約ならなおさらだし、それが国をまたぐとなれば正直どのくらいかかるのか全く想像もつかない。一様に気にすんなと言われたが、気にするわ。

 そこからは海外土産のコーヒーを沸かしてみたり地元の水産物をPRしたり、なんちゃない話ばかりですぐに時間になってしまった。
 家を出る前だと思う。「次はGWくらいかな」と自分から伝えた。自分はいま、あまり将来の約束事をしないようにしている。それでも自然にその言葉が漏れた。口に出した以上は実現できるよう責任を持ちたい。
 車に乗る直前、みんなと握手して別れた。

いよいよ病院が近づく、時間は予定通り。娘にも何度も説明していたからか「これからパパは病院に行くんだよね?」と何度も確認された。「そうだよ」と答えたら、「暗いから鹿がいるかも!」と別のことに興味が移ったようで、思ったよりもちゃんと理解してくれているのかなと勝手に勘違いしていた

 病院に到着し、必要な手続きを済ませ、先生に許可をもらった場所まで家族3人で向かった。そのくらいから「歩くの疲れた」や「抱っこしてほしい」と前に進むのを嫌がるような素振りを見せ始めた。ナースステーションに着くころには、妻が抱っこしないと中々動かなくなってしまった。
 看護師さんにちょっと無理を言い、自分の荷物を預けて最後に妻と娘を病院の出入り口まで見送った。途中で、「パパ抱っこ」とせがまれ、道のりの半分くらいを抱っこして歩いた。
 「帰る前にお父さんとしたいことある?」と聞くと、指折り数えながら、抱っこやおんぶ、高い高いなど、いくつかのことを求められた。

 ひとつ、抱っこをしてあげると笑顔になってくれた。降りると泣きそうな顔になる。ふたつ目、おんぶをしてあげると声をあげて笑ってくれた。降ろすと目が赤くなっていた。高い高いをしたあたりから、ポロポロと涙が落ちてきた。握手、ハイタッチ、最後にギューをしたあたりには完全に泣いていた。自分と妻も泣いた。このタイミングになるまで、自分は娘を軽んじていたことに気が付けなかった。これが普通の4歳児だ。

 娘は賢い、お話も上手だし歌や踊りも大好きで、いつも色々な姿を見せてくれる。それだけじゃない。自分の父親がほかの父親と違う状況にあることも、これから父が死んでしまうかもしれない治療を受けるために、病院に戻るということをある程度理解してくれている。
 だけど、理解することと、納得できるかどうかは全然違う。自分だってそれができずずっと悩んでいるのに、自分よりも30歳も年下の人間がそれをできるはずがない。そんな当たり前のことが目に入っていなかった。もっともっと娘との時間を作るべきだった。自分が会いたい人に会うために、貴重な娘との時間を潰してしまっていたのかもしれない。そう思った。

 少し落ち着いた娘が「お父ちゃんが世界で1番大好き」と言ってくれた。娘のこの一言が、ほかの誰の、どんな言葉よりも、どんな行動よりも尊く、自分を奮い立たせてくれる言葉だ。この言葉のために自分は生きている。
 「お父さんも世界で1番大好きだよ」と返した。一切の偽りない本心。生き残れたとしても、たとえ死んだとしても、これは絶対に変わらない事実だ。笑ってくれた。我が子の存在が、改めていまの自分の命を生かしてくれていることを再認識できた。

 守衛のおっちゃんが気を利かせてくれて、玄関を開けっぱなしにしてくれたおかげで、最後に妻と娘が乗った車が病院を出るところまで見送ることができた。ふたりとも「またね」「またね」とずっと手を振り続けてくれた。
 戻り際、おっちゃんに小さい声で、「いい家族やね、病気治るといいな」と言われた。しばらく玄関から動けなかった。

▶心を整え、鍛えるということ

 『心を整え、鍛えるための外泊期間にする』というのが今回外泊を行うにあたって自分に銘打った目標だった。移植の成功率を高めるために、外泊は感染症や外傷、その他ほとんどの面でリスクでしかなく、2泊3日という期間で移植に負けない強靭な身体を作ることもできない。ならこの期間、自分は何をするために外出のリスクを背負うのかを考えた時、頭をよぎった言葉がこれだった。
 それを考えながら、外泊期間を終え、病院に戻り、明日からの本格的な治療の開始に際して、改めてその意味を振り返る。

▷人の心は刀そのもの

 何かの漫画か、どこかのバンドが歌ってたような気がする。まさにその通りだと思う。いかに優れた素材を持っていたとしても、その素材を鍛冶場に持ち込まず、放っておけばせいぜい鉄の棒だ。何十回、何百回、何千回と熱しては叩き、冷やし、その行程を繰り返すことで、鉄の塊はより鋭く、優れた刀へと姿を変えていく。
 今の自分は頭の中でこれを繰り返して、自分という存在を刀に近づけているのだと思う。色々なことを考え、整理し、不要なものを削ぐ。必要なものを足す。間違っていたことは素直に修正する。その繰り返しが、自分をより優れたひと振りの刃に鍛えあげてくれているのだと思う。
 自分は妻や娘をはじめ、本当に周囲の人に恵まれている。その人たちの言葉が、行動が、存在が、鍛冶場の炉であり鎚であり、水である。

 そういう意味で、心を整え、鍛えるという目標は達成できたと思う。移植に向けて、自分という刀をより洗練されたものにできたのではと思っている。ただし、これは移植までのものではなく、これからの未来の自分の生き方そのもにもつながるものだと思う。

▶これからのスケジュール

 そんなこんなで自分という刀を鍛えられたと思っているが、治療がきついのは事実で、それが嫌なことには事実だ。いくら心を鍛えたって、痛いことを「気持ちいい」とは思えない。性癖の話ではない。
 それでも治療は始まる。今記事を書いているのは深夜11時結局日付をまたいでしまった。さっさと寝るべきなのだが、今の熱が冷める前にこの鉄を打っておきたいと思ったので、夜更かし覚悟で進めている。

 外泊の期間中、先生達で自分の治療について検討してくださったようで、大きな問題(想定外の副作用や感染症等)がない場合には以下のスケジュールで進むことが確定した。

▷移植前後のスケジュール

①11月21日~27日
・前々処置④(抗がん剤2種)
⇒吐き気等の副作用の可能性高め

②11月28日~12月3日
・前処置

⇒強度の高い抗がん剤複数服用するため副作用も強い
⇒腫瘍崩壊症候群発生の可能性あり(臓器に強い負担)

③12月4日
・臍帯血移植(移植当日)
⇒点滴形式で2時間程度で終了予定

④12月4日移植以降~期間未定
・経過観察
⇒抗がん剤副作用、移植合併症、感染症、急性GVHD、その他予想外の事象等による死亡リスクが1番高い期間。生まれ変わり中。

⑤12月末~翌1月上旬
・(理想的)生着時期
⇒年末年始ごろに生着症候群(突然の発熱や各種免疫反応)の可能性
※逆に1月に入った後もその反応がなければ生着不全(移植失敗)の可能性

▷移植前後の可能性の話

 改めて、今の状態で移植を行った場合の『可能性』を振り返る。

まず、前処置~移植による身体への負荷に耐えられず死亡する可能性が50%程度、残り50%で身体が耐えられた場合に、新しい造血幹細胞が生着する可能性が20%程度、この時点で全体でみれば生着にこぎつける可能性は10%程度、そして非寛解状態で移植を行うため、再発の可能性が60~70%程度、全体でみればこれらの死亡エンドを回避できる可能性は3、4%程度
 この可能性を最低5年間(年数が経過するほどに再発の確率は下がるらしいが)ひき当て続けることが、自分が『白血病を治す』ということになる。
 移植に身体が耐えられなかったら死亡、生着不全なれば死亡、再発したら死亡と、本当に理不尽な戦いだ。
 それでも自分ができることは、鍛えた刀で切りかかることだけである。それだけが将来に歩みを進める可能性を高める選択肢である。

 そのための闘いが早速明日から始まる。1日で約10,000文字書いたのは初めてかもしれない。まだまだ書きたいことや話したいことはいっぱいあるけど、それは個人へ連絡しようと思う。

▶雑記

 自分は刀は持っていないが、剣道は(中学3年間だけ)経験がある。武道(に限らずスポーツ全般)は身体だけでなく、心を鍛えるモノでもあると信じている。この外泊期間の自分は、多くの人と言葉を交わし、稽古をつけてもらい、自分に足りないもの、すでに持ち得ているもの、それらを整理することができたのではないかと思う。
 剣道は如何に相手よりも早く有効打を放つことができるかで勝敗が分かれる。上級者のそれは本当に閃光のように、稲光のように、刹那の闘いになる。
 自分は中学3年生の最後の大会で、その面白さに気が付いた。相手と切っ先を競り、最短で飛び込むことのできる動線を奪い合う。その時のピリピリとした静の時間と、一瞬の動、交錯の間に撃ち込み、有効とならなければまた向かい合う。その静と動の共存に背筋からゾクゾクとした興奮を感じたことを覚えている。その試合は負けてしまったが、できればずっと続いてほしいと思えるほどに気持ちが昂り、何でもできるような感覚すらあった。

 その全能感はもう2度経験できないかもしれない。それでもあの3年間の稽古が自分の心の中心線を作ってくれたんじゃないのかなと思う。

最後までお読みいただき、
ありがとうございました!