過去について書き出し、カタルシスを起こす
こんばんは。テンです。
お昼寝しまくって眠れないので、少し文章を書こうと思います。
以前のコラムで、テンって何者?というのを書かせていただいたのですが、その中に「心から嬉しいと思うことが少なかった」と書きました。
今回はその背景について、時系列で書き綴っていこうと思います。
僕は小学校・中学校まで勉強やスポーツ(野球・水泳・陸上・サッカー)、そしてバンドもかなり頑張っていて、
地元では「天才テンちゃん」と呼ばれていました。(笑)
(これは自慢なのですが、中学校の卒業式には制服のボタンが第二ボタンのみならず、全て無くなるくらいでしたので、かなり人気者だったと認識しています。)
なぜこんなに頑張れたのか?
今思うと、これは周りへの強烈な劣等感からでした。
自分の実家はかなり貧乏なのです。
父、母、祖母、兄、妹、自分の6人家族構成にも関わらず、家は2LDKのマンション。もちろん自分の部屋などあるはずなく、友達を家に呼ぶこともほとんどしたことがありませんでした。
次男なので、服はほとんど兄からのお下がりです。朝ごはんは毎朝食パン1枚でした。旅行もあまり好きな父親じゃなかったので、家族旅行をした記憶はほとんどありません。そして外食もあまり好きじゃない父親だったので、家族で外食をした記憶は「バーミヤン」で1度だけです。
これが普通だと思っていましたし、「よそはよそ、うちはうち」の文化で育ってきたので、他人の家族の話を聞くと別次元だなと思っていました。
しかし、やっぱり綺麗な一軒家の家庭にお邪魔すると、「めっちゃいいな。部屋も広いし、綺麗だし、自分の部屋もあるし。最高じゃん。」と思ったりしたのでした。
それが積み重なっていき、こんな感情が芽生え始めました。
なんで俺の方がみんなより色々できるのに、不遇なんだ?なんでみんなの方が幸せそうなんだ?これはなにかがおかしい。絶対に超えてやる!
これが向上力の源泉でした。
ちなみに、兄は長年いじめられっ子でした。妹はドジで笑われる子(愛嬌が武器)でした。
自分は特に兄を見てきて、思ったのです。いくら優しくても周りから舐められてはいけない。舐められると痛い目を合うのだ。そのためには幅を利かせなければならない。
そんな思いが、自分の向上心に火をつけます。
こんな父親になって家庭を作るのはダメだ!
周りから舐められたらダメだ!
こんな気持ちを持ち続けながら、なんでもがんばりました。小学校〜中学校まで内申点はほぼMAXでしたし、書道や絵画も表彰されていました。もちろんスポーツも。高校は、無事進学校へ入学を果たし、順風満帆な生活を送りました。学業はクラスで1位 or 2位、部活でも部長、学園祭では最優秀賞を取っていたので、充実した2年間を過ごしました。
そうすると、周りから褒められるのです。
「テンはいつも頑張っていてすごいねー。◯◯も頑張っているし。」
これはなんの褒め言葉にもなりません。「俺と違って、お前は恵まれているからな!」と内心で思っていました。
(ただし、母親にだけ褒められるのは嬉しかったです。三兄弟の中で目を惹ける瞬間だからでした。)
そして、16歳(高1)の頃に大きなできごとが起こります。
父親が「脊髄小脳変性症」という不治の難病(『1ℓの涙』の病気)に罹り、仕事へ行けなくなり始めます。母親はパートをしていましたが、父の病気の進行が進むにつれて、介護福祉士に転職しました。
自分はその病気のことをネットで調べ続けました。(情報収集癖は、この時に身についたものだと思います。)
すると、いろいろなことがわかりました。
・不治の病であること。
・徐々に動けなくなり、10〜15年くらいで死に至ること。
・遺伝性の場合は、優勢遺伝(50%で遺伝)であること。
・遺伝した場合は、トリプレットリピートが起こること。(DNAが引き継がれるほどに、発症が早くなり、症状が重くなること。)
この病気における遺伝性と孤発性の割合は40%:60%くらいでしたので、
自分に遺伝して発症する確率は20%程度くらいかと、認識しました。
そこからの2年間は、人生の不条理を抱きながらも、勉強とスポーツと恋愛に熱中しました。その頃には全国模試の偏差値は70くらいいっていた記憶があります。
高3を迎える頃に、父方の姉(叔母さん)が、ふらふらするというのです。診察を受けてみると、父親と同じ病気の可能性とのこと。
これはほぼ遺伝性で間違いありません。
ここで急に不安になりました。
50%で親父と同じ病気になる!親父が発症したのは45歳だから、30代に発症するのは多いに考えられる。そして重症化するということは、30代で俺が亡くなる可能性もある。遺伝していたら、自分の子にも50%で遺伝する。その子はもっと早く亡くなる可能性がある。てことは、こんな確率を持っている上で、誰かと結婚なんてできない。
これが高3の春に突きつけられた現実でした。
俺は遺伝子的に劣っているのだな。
いくら自分が頑張っても頑張っても、血は争えず、不幸からは抜け出せないのです。
僕はこの思いを一人で抱えきれなくなり、ずっと付き合っていた彼女に、このことを正直に話しました。
受験前の夏にフラれました。
そんなときに大好きだった祖父の容態が悪くなりました。ガンで亡くなりました。
受験期真っ只中でした。
僕はこの目の前のリアルな"死"と、今後起こりうる想像でできる"死"をリンクさせてしまい、鮮明に自分の死を想像しました。
頭をバコン!と強く打たれた後のように、打ちひしがれました。
・頑張っても報われないことが多すぎる。
・周りの受験生と背負っているものが違いすぎる。
・俺は大学に行って良いのか?でももしかしたら大学で勉強中に俺も死ぬかもな。
・本当は美容師か弁護士になりたいんじゃなかったっけ?
・弁護士になる前に死ぬかもな。
・もし美容師専門学校へ行って50%で生き延びられた場合は?順風満帆な家庭を築けそう?
そんな葛藤を夏休みに毎日繰り返して、誰にもこの悩みを言えずに「もう死にたい」と、明け方まで日記を書き綴っていました。昼に起きて、一切勉強はせずに、ずっと映画を見続けていました。
・なぜ自分は生まれてきたのか?
・なぜ俺を産んだのか?
・なんのために生きているのか?
考え続けました。「生まれたくて生まれてきてんじゃねーからな!」と母親に暴言を吐いて、叩いてしまうこともありました。
そっからは自己嫌悪との戦いです。今思えば、これが僕の人生における初めてのうつです。
学校へはかろうじて行っていましたが、ノートも開かず、ずっと授業中は寝続けました。みんな頑張っているのに、何もやっていない自分に引け目を感じていました。
自分は勉強するつもりもなかったし、もう人生どうなってもいいやと思いました。たまに学校を休んで、担任から電話がかかってきても、何も思いませんでした。
みんなとは悩みの大きさが違う。俺はほぼ死んでいるのだ。
そう思っていました。
そう思いながら、無気力で半年を過ごしました。
冬のセンター試験を受けて、さすがにやばいなと思ったので、
そこから一気に詰め込み、県内においてはトップの私立大学へ受かったので、
嫌だったら1年で辞めよう。とそんな軽い気持ちで進学しました。
そこで出会った友人たち、新たな彼女が、物凄くこのことを理解してくれる人たちで、生涯一緒にいてくれるのだという安心感を覚えました。
大学自体は1年で辞めようとしていたので、授業には出ず、ずっとバカなことをやっていました。
1年経って、単位は10ちょっと。このときにはその彼女とずっと一緒にいたいと思ったのです。これでは両親に顔向けできない為に、辞めてはならん。
勉強を頑張ろう。
また頑張り始めました。一気に遅れを取り戻し、3年生ではゼミ長にもなりました。
もし自分が将来父親と同じ病気になったとしても、支えてくれる彼女や仲間がいる。俺は普通に生きられるかもしれない。素敵な家庭を築けるのかもしれない。それでも、それでも万が一のことがあった時に、うまく資産形成できていけるように、「待遇面の優れた大企業」に入ろう。
持ち前の強烈な劣等感を武器にして、海外でインターンをしたり、国内でも都市銀行でインターンをしたり、某通信大手会社でのアルバイトをしたり、とにかくビジネススキルを身につけるために動き回りました。
努力が実り、就職活動は成功しました。日本のトップ大学だけでなく、海外の大学からも採用しているような第一志望の企業へ内定、そして就職します。
社会人1年目、遠距離になった彼女が不安になり始めます。
「私たちこのまま結婚していいのかな?」
「あなたの将来が不安。」
付き合うときに自分の悩みを了承してくれ、ずっと一緒にいると言ってくれた彼女でしたが、4年も付き合い、本気で自分との将来のことを考えると不安になったのでしょう。
「俺には何も言えない。将来が保証されていない。ただ言えることは、不安になるのならお互いのために別れよう。好きだけど。」
というラブストーリー満天な感じで、別れたのです。
(なので、この頃の彼女と、高校の頃の彼女のことは、今でも少し好きだったりします。)
そして、僕はまた思います。
これは世の中の不条理だ。いくら自分が頑張っても不幸の連続がつづく。
この時には23歳。なんと発症前の遺伝子検査ができる年齢になっていました。
この彼女との別れをきっかけとして、「俺は、今後自分が生きるか死ぬかを知りたい!」もし数年以内に死ぬってなったとしても、その時はそれで、もういい。
そういう生き方をするんだ!となり、半年間くらいかけて遺伝子検査を行いました。
結果は、陰性(つまり、父親の病気は遺伝しないし、子供もつくれるよ。やったね!)でした。
このときに、衝撃的な価値観の変化が起こったのです。
自分は、30代で死ぬだろうと思いながら、高校の頃から思い続けて生きてきた。生い立ちにおける劣等感と、その「死ぬかも」という不安感を強烈な向上心に変えて、頑張ってきた。でも、それって本質的な嬉しいことではなくて、ただ恐怖や劣等感から自分を奮い立たせて、なんらかの成功を掴みたかっただけなのではないかと。
そう考えると、本当に自分がしたいことを改めて見つめ直す必要があるし、40歳以降の人生なんて考えたことがなかったから、生き方から見直そう。
ここまでが24歳のできごとでした。
そっから仕事では本社配属になり、出世コースに完全に乗っかったと思ったのですが、仕事内容と上長が合わず、ハラスメント事件も起こり、適応障害と診断されます。(1ヶ月休職、うつ状態2回目)
半年後には退職して、アメリカへ行って自分を探そうとしたり、
なんやかんやあったりして、今の会社に就職しました。
ただ、そこでも自分にプレッシャーをかけてオーバーワークをしてしまい、
結局「双極性障害ですね」と診断され、
「また不条理かよ!」と思うわけですが、
自分の場合、やりすぎ気質はこんな生い立ちからきていそうです。
双極性障害が寛解して再度働き始めた今、僕は改めて本当にどうやって生きていきたいのか、どうしたらイキイキとしながら、働き続けることができるのかを模索しています。
イケてる30歳を迎えたいな。
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