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久保山光明寺物語 (1)(2)

久保山光明寺物語 第一話

 横浜市西区に位置する久保山は、山肌に無数の墓が連なった墓地である。この山を象徴するものは、この墓地以外に火葬場であり、霊堂である。横浜の弔いを担う地である久保山には、多くの寺院も存在する。
 その一つである光明寺は、久保山霊堂前というバス停の目の前にある。光明寺の伽藍は、明治二十一年にこの地に建立されてから、戦災などの災禍を逃れ、幾度の改修を経て今に伝えられている。しかしながら、光明寺は久保山からスタートしたのではない。
 さて、光明寺の歴史を語る前には、横浜の歴史を語る必要がある。光明寺は横浜とともに発展した寺院だからだ。
 嘉永六年(一八五三)、ペリーが浦賀に来航し、安政元年(一八五四)には日米和親条約が締結された。開国した幕府は安政六年(一八五九)に横浜港を開港、横浜村の人口は四八二人であった。それが明治二十二年に横浜市となった時には、十万人以上の都市となっていた。市域が広がったこともあろうが、開港以来、横浜には日本各地、さらには海外からも人が集っていたのである。

久保山光明寺物語 第二話

 明治になり、日本と世界を結ぶ窓口となった横浜には、開港十三年後の明治五年(一八七二)九月十二日に新橋と横浜(現在の桜木町駅)を結ぶ鉄道が開通した。
 海外からの人や物を受け入れるとともに、日本から海外にむけて製品を送り出しもした。特に生糸は当時の日本における輸出の主力商品で、横浜に鉄道が開通したのと同年には、群馬に富岡製糸場が建設された。富国強兵を進める日本にとって、外貨を獲得することは大きな目標であった。富岡製糸場建設の翌年には、生糸を中心とした貿易を促進させようと、生糸改会社が設立された。
 明治となってからの横浜は、貿易都市としての整備が進み、人も集まってきた。短期間の間に、横浜には大きな変化が起こった。現在とは異なり、幼児死亡率も高く、人が集まれば当然、死ぬものもいる。そこで仏教教団は布教のための施設を作り始めた。
 当時の鎌倉光明寺住職であった吉水玄信(のち大本山増上寺七十二世)は、石川町七丁目の廃屋に観音菩薩像を安置し、鎌倉光明寺明寺教会所と称した。明治十一年(一八七八)十月のことである。実際の運営は弟子であった尼僧の野瀬妙音が担当した。


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