別れるのになぜ出会い、死ぬのになぜ生きるのか
今日の法話です。
皆さん本日は三回忌の法要によくお参りでした。共々にお念仏を称え、供養の心をお捧げいたしました。故人がこの世を旅立たれて丸二年が経過しようとしています。これまでのあいだ、お集りの皆さんは、折に触れて、故人のことを思い出す機会があったとお察しします。
故人がなくなった時には思いもよらなかったことですが、本年はコロナウイルの影響が大きく出ています。みなさんも暮らしの変化の中で、心身に苦しみや辛さというものを感じる機会が多かったことと思います。
先日、報道で今年の8月はご自身で命を終わらせる選択をする方が多かったことを知りました。コロナ禍の中で、自分の命と向き合い、また苦しみに苛まれる方が大勢いたということだと思います。お集りの皆さんも大切な方を失った経験、そして今年の状況の中で、それぞれ「いのち」のことに思いを巡らせたことでしょう。
人は生まれてきたら必ず死にます、そして出会った人とは必ず別れねばなりません。結局は別れるのになぜ人は出会い、死んでしまうのになぜ生きていくのでしょうか。すべてが死によっておしまいになるなら、出会いも、人生も意味なんかないのかもしれません。
けれども、浄土宗では「死は終わりではない」という教えを説きます。死んでしまうことで、生きていた時の関係や自分が行ったことがなくなるのではありません。生きていた時の関係を持ったまま人はあの世へ旅立ち、死んだ後も私たちに影響を与えていきます。
浄土宗を開いた法然上人は、私たちが経験する死別を「しばらくの悲しみ」と説きました。もしも死別が永遠の別れなら、その悲しみも永遠の悲しみでしょう。しかし、またその人と会えるなら、その別れはしばらくの悲しみといえるものです。
また極楽浄土に生まれた人は、この世で気づいたご縁を思い出すといいます。皆さんと故人がともに笑い、ともに泣き、手を取り合った日々を、亡くなった人は思い出します。皆さんのことを覚えています。そして、その思いを胸に極楽浄土で仏となる道を歩んでいきます。その道は、何よりも皆さんの幸せを祈りながら歩むものです。だって皆さんのことが大好きだったのですから。
繰り返しになりますが、死を永遠の別れ、人生のおしまいと理解すれば、たしかになぜ死別するのに関係を築き、死んでしまうのにいろいろなことを行うのかと疑問にも思うでしょう。しかし、死は終わりではありません。この世で皆さんが夫婦として、親子として、親族として、様々に築いたご縁はあの世とこの世でつながっています。
お仏壇やお墓に手を合わせること、今日のようにお時間をとっていただきご本尊さんの前にお座りいただき法事を営むこと、そしてお念仏を称えること、お亡くなりになった方はその姿を見て、その声を聞き、そしてそこに込められた思いを受け取って、ご自身が仏道を歩むエネルギーにしています。みなさんと故人と今でもしっかりとつながっています。
故人はそのつながりの中で、皆さんのことを見守り、皆さんの幸せを祈りながら、極楽で過ごしています。皆さんはそのお見守りを受け止め、ご自身が明るく、正しく、仲良く、少しでも笑顔の多い日々を送っていくことも、日常でできる大切なご供養です。どうかこの三回忌をきっかけに、そのようにお受け止めを頂き、皆さんそれぞれの日常と供養の道を一歩一歩進めていってください。
それでは、このご供養の最後に皆さんの胸の内を、十遍の南無阿弥陀仏に込めて故人と仏様にお捧げをして一区切りとします。
南無阿弥陀仏