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仏教を学ぶためにー仏教とは?ー

仏教ってなんですか?

仏教講座や大学の講義など仏教を教える機会に恵まれ、いろいろなお話をします。そうはいっても正面から「仏教ってなんですか?」と問われると、なかなか答えにくいものです。

仏教の説明で多いのは「仏の教え」あるいは「仏になる教え」というものでしょうか。これはわかるようで、難しいものです。仏とは?とか、教えの内容は?という問いが生じるからです。

問いが漠然だと答えもまた漠然になるものです。ここでは「仏教とは?」に①学問的な回答 ②宗教的な回答の二つの面から答えて見ます。

まず「仏教とは?」に対する学問的な回答は「ブッダの説いた言葉とそれに基づく表現の歴史」となります。ここでいう「ブッダ」とは歴史上のゴータマ・ブッダだけではありません。大乗仏教も視野に入れると、阿弥陀仏、大日如来(仏と如来はともに覚った者のことです)など様々なブッダがいます。このようなブッダの説いた言葉を受け止めた人々は、教えを表現しました。

「表現」というのは、言葉に基づく実践であり、言葉を受けての創作であり、言葉を明らかにする解釈のことです。

言葉に基づく実践とは修行であり、言葉そのものを伝承していく営みです。仏教の歴史は、仏道修行者の人々が紡いだ歴史であり、実践抜きに仏教の歴史を語ることはできません。仏教徒とはブッダの言葉をともしびとして、ブッダの言葉通りに修行をする人、生活をする人のことといえます。

言葉を受けての創作とは、仏教美術といわれるものです。ブッダの言葉はそれを受け止めた人々の創作意欲を喚起しました。その意欲は、仏塔などの建築物、絵画や彫刻といった芸術、あるいは仏典の言葉を受けての文芸など、様々な創作を生み出しました。現在では、二次創作というジャンルがあります。その作品が多くの人に知られ、また心を動かせば、様々な二次創作を生み出します。その意味で仏教の歴史は、ブッダの言葉に影響を受けた人々の二次創作の歴史といえるかもしれません。

言葉を明らかにする解釈とは、注釈書の作成のことです。注釈書は仏教文献の多くを占めます。ブッダの言葉の真意を明らかにしたい、教えを体系的に学びたい、そんな意欲が注釈書という形になって表現されます。注釈とは言葉の意味をはっきりさせること、全体の文脈と一文一文の関係を提示することです。特に一語一語、一文一文に対して注釈を行う逐文解釈は、仏教経典に対する注釈の真骨頂です。この注釈に接すると、その制作者が経典の文章を一文字一文字を大切にしていたことが、よくわかります。

それでは宗教的な答えはどうでしょう。これにはたくさんの答えがあります。お坊さんごとに言うことも違うはずです。宗教とはそういうものでしょう。

さて私にとって仏教とは「幸せにいきる教え」であり「自由に生きる教え」です。仏の言葉とは幸せになるためのもの、「幸せ」とは「自分の受け止め方」です。自分の受け止め方を変化させることで、より幸せになるというのが仏教的な考え方です。法事やお葬式もこの観点からとらえることができます。儀式は自分の心を変え、故人への思いを新たにする営みです。

自由に生きるとは、社会から、そして自分から自由に生きるということです。仏典の言葉は、私たちをがんじがらめに縛り付ける束縛から、私たちを解放します。仏典に説かれるものの見方、考え方、生き方は自分の殻を破ってくれます。思考の枠を広げることは、常識的なものの見方を変化させます。

幸せや自由についてはまた今度書こうと思います。もちろんすべての人にこれが当てはまるとは言いません。しかし、宗教として仏教を学ぶこと、そして実践することで、幸せで自由になる人がいることも間違いがないことです。それは仏教の歴史を学ぶことで分かります。修行者のなかには、私たちにとっては普通ではないものの見方、自由な生き方をしてきた人がいます。仏教を学ぶことは、この点で、仏教の実践をサポートしてくれます。

仏教の学びは、その意味で仏教の大切な実践ということができるかもしれません。

まとめ

学問的には仏教はブッダの説いた言葉とそれに基づく表現の歴史

・・・表現とは「言葉に基づく実践」「言葉を受けての創作」「言葉を明らかにする解釈」のこと

宗教的には仏教は「幸せにいきる教え」「自由に生きる教え」

・・・幸せは自分の心が変化することでやってくる。仏典のものの見方は常識から私たちを自由にする。

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