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ヤンマガWEB連載「アンダードッグ」紹介

忍者と極道の近藤先生のツイート見ていたらリツイートで紹介されていたので読み始めた漫画。

作者の冨田先生の既存作品はジャンプ+で無料掲載されています。

【内容紹介】

……の前に。

この漫画、登場人物には心身ともに、読者の精神的にもダメージが多い漫画です。

わたくしタコピーの原罪はこのあたりが原因で読めなかったクチ。
耐性がある人向けです。
痛々しい絵面のスクショも貼っていくのでダメな人はここで引き返すんだ!

【改めて内容紹介】

先生自身の紹介ツイートがそりゃ一番適当だろうと思うので真っ先に貼っておきます。

紹介通り、ブラック企業で心を病んだ青年「宇佐美徳久」が、上の画像の通り事故で片脚を失った走り高跳びの選手である少女「氷室楓」のために、義肢を作って互いに再び立ち上がろうとする物語。

【スポ根漫画ではない】

主人公が義肢エンジニアであることからわかるように、この漫画は義肢を作る方に(少なくとも現在では)焦点が当てられている。

内容が内容なだけに非常に繊細な問題を扱っており、気概と研究心のある作者さんだなぁと感心するところ。

※※※

もう一つ繊細な問題が主人公の徳久のメンタルが完全に鬱病患者であること。
ブラック企業勤務でトドメを刺されただけであって、上の画像のように学生時代から既にもう彼のメンタルはやられている。

というかメンタル以前に肉体が既にやられている。

虐待の結果、元々不安定に育った心が社会の歯車で引き潰されたというのが大体の経緯。
彼を蝕む「普通」「まとも」という世間の規格は私の心にもザクザク刺さってしまう。

リアルだなぁと思うコマ…

実際のところ、徳久の心が救われている瞬間は誰かに感謝されたり必要とされる時であって、社会に必要とされているかどうかというのは別問題だったりしている。
楓がいたから幸か不幸か彼の心は完全に壊れきることがなかったわけだが、忍者と極道を読んでいると「極道に堕ちなくて良かったですね……」というわけのわからない感想が浮かんでくる。
こういう社会的弱者を引きずり込む沼だからな極道は!救済なき医師団にいても嫌すぎることに違和感ないぞ!

【それは祝福か呪いか】

呪いはあるぜ。しかも効く。呪いは祝いと同じことでもある。何の意味もない存在自体に意味を持たせ、価値を見出す言葉こそ呪術だ。プラスにする場合は祝うといい、マイナスにする場合は呪うという。呪いは言葉だ。文化だ

姑獲鳥の夏より

この「呪いと祝福は同一のモノでベクトルが違うだけ」という考え方は、鬱病においては結構重要なことだと私は思う。
よく言われる「頑張れ♡頑張れ♡」は絶対メンヘラに言ってはいけない言葉というのがあるが、正にこの呪いと祝いのソレである。
京極堂はよくできた言霊使いだからコントロールできているが、我々のような素人が口にする言葉は容易に祝福と呪詛のベクトルを変えてしまう。

※※※

このシーンの徳久は文字通り必死なのだろうが、本当に必死の覚悟で発言しているだけにこれは恐ろしく紙一重の祝福であると言える。

彼は恩人の娘にして、妹のように接してきた楓を何よりも大切にしているのだが、どこか自分が注がれなかった愛情を楓に注ぐことで精神の安定を図っているところがあり、大変に危うい。
命をかけて全てをなげうってでも大切な人を救うというのは一見献身に満ち溢れた愛情に見えるが、徳久の場合は残念ながら遠回りな自殺願望に近い。

だが幸い、彼は大変周囲に恵まれている。

楓の父親にこう説教されているように、楓の義足を作れるのも彼女の心を救えるのも徳久しかいないわけで、そのためには彼は自分自身の価値を見つめ直し再起するしかないのである。

※※※

この手の自己肯定感が低い人間は、周囲に認められるために限界を超えた爆発的な能力を発揮することがある。
だが限界は越えちゃいけないから設定されているものであり、そんなもんをしょっちゅう越境していたらぶっ壊れる。

愛しい者や弱き者を仏の慈愛を以て己を犠牲にして守った所でその者たちの中には悲しみが残り本当の意味での幸福(しあわせ)は訪れない
時代の危難を修羅の激情で以て命を捨てて鎮めた所でそれは所詮連綿と続く時代の一時だけのことに過ぎない
生きようとする意志は何よりも強い…それを決して忘れるな

るろうに剣心より

私がるろ剣で一番好きな台詞なのだが、誰かを本当の意味で幸せにしたいのなら、自分自身を肯定して大切にする必要がある。
それが、自己肯定感の低い人間には本当にとてもとても難しく一生かけて戦い抜かなければいけない問題だったりするのだが、だがこれを見誤った発言や行動は、容易に祝福から呪いへと転化しかねない恐ろしいモノだったりするのだ。

上記で引用した「姑獲鳥の夏」でもこの祝福が呪いへと転化するエピソードが描かれており、亡き母親の残した息子への愛情の言葉が、とても恐ろしい呪いへと変化してしまっていたりする。
亡き母親というのが大事な所で、生きてさえいれば言葉を交わした当人たちで再び話し合うことで祝福と呪詛の転換は再び行われたり、もしくは解消することもできたりする。
だが死んでしまってはどうしようもないのだ。死者の残した祝福の言葉が呪詛へと成り果ててしまえば、それを覆すことができるのは言葉をかけられた当人の観念を変えるしかない。

故に「生きようとする意志は何よりも強い」「自分を大切にしなさい」というお話になるのである。

※※※

そういう意味では、徳久に守られ支えられている楓もまた自分自身の価値を認めて、己の脚で立ち上がる必要があると言える。
先述したように、徳久は楓を守り慈しむことで自分の価値を見出している面が強い。あまり褒められたものではないが、それでも何も無いよりかはるかにマシなので、彼女はそういう意味でも自分の価値を見出していく必要性があるだろう。

まぁ3話読む限り、楓はもう自覚的ではないのかという気もするのだが……。

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