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鬼殺隊はなぜブラックなのか

鬼滅の刃の主役組織たる「鬼殺隊」であるが、この組織は「ブラックなのではないか?」という声もある。
というか私はブラックだと思っているからこのような記事を書くわけで、その理由を考察するというのが今回の主旨。
「そもそもどのあたりがどうブラックなの?」と思う方は「鬼殺隊 ブラック」などのワードで検索をかけると誰か様が書いたその手の記事が引っかかるはず(2023年追記。当記事が上の方に引っかかるようになってしまった。無惨……)。

【ココがブラックだよ鬼殺隊】

1:隊員の人命軽視
2:上の問題に伴う隊員の育成軽視
3:作戦立案の軽視

細かいところでは色々あるが、この三つ、とくに前二つが致命的。
1と2の問題は密接に関わっている。
簡単な話で、隊員を危険な任務にノーフォローで送り込むため、場数を踏んで成長する前に多くの隊員が落命してしまうというデフレスパイラル。
柱たちが人手不足を嘆き、昨今の隊員の能力低下を危ぶんでいるが、身から出た錆と言う他ない。

また、なまじ日輪刀で個々人に相性のいい呼吸が判別できるため考えることが放棄されているのか、隊員個人個人の長所を生かし成長させるという視点も著しく欠いている。
主人公の炭治郎などはその典型で、彼は色々なモノを「匂い」で感知することができるため、鬼の居場所を嗅ぎ当て危険を事前に察知し鬼狩り主力隊員にその情報を送る、偵察や斥候などが本来もっとも得意とする任務だと私は受け止めている。
彼が前線に張り付いてそのまま命を賭して戦う意味はあまりない。それはもっと実戦を踏んだ強い剣士が担当し、炭治郎のような未熟な子供の隊員は先輩剣士のフォローをしながら徐々に剣腕を挙げていけばいいのだ。

※※※

こういった「隊員同士の連携」「隊員の命を守り、そして育む」という考えが鬼殺隊には無い。
「煉獄さんは除外されるよね」と思った方は大間違いである。彼は自分の命と引き換えに下っ端隊員を守ったので言語道断だ。
柱の中でも上位である自分の戦力の貴重さを理解し、自分と隊員と民間人の命を全て守るためにはどうすればいいのか考え最善を尽くしたうえであえなく死んでしまうことと、全くそれらを考慮せず周囲の命を守るために自分の命をがむしゃらに投げ打つことを一緒にしてはならない。

【福利厚生はしっかりしている】

なお日輪刀の支給、衣食住等にかけての福利厚生はめちゃくちゃしっかりしており、そのうえで最下級の平隊員でも手取り20万円相当とこの点に関してはかなり恵まれている。
戦闘を主とした秘密結社なので、劇中の様子を見る限り医療費もおそらく無料だろう。病気の場合は専門医にかかる必要があるので自腹を切らされるかもしれないが。

しかし鍛錬と仕事の厳しさを考えるとぶっちゃけこんなに貰っても使う時間や機会がない。
使っちゃう前に死んじゃうのがオチ、そもそもツッコミどころしかない入隊試験等を考えると生涯年収は安いのではないかと指摘している記事も散見される。

※※※

そして最大のツッコミは言うまでもなく柱の給料は実質無限。

蜜璃みたいに諸事情あってエンゲル係数莫大な娘ならともかくとして、良きにせよ悪しきにせよ、当代の柱はお金に執着心が薄そうな人ばかりであり、どこからツッコミを入れたらいいのかわからない。
伊黒なんか福利厚生だけで一銭も使わず生きてそう。

こんな無意味な金の使い道があるのなら、鬼の侵入経路や逃走経路の制限のために全国各地に藤の花畑でも作ったり紫外線照射装置(が効くかどうかはともかくとして)を開発したりした方が良かったのではなかろうか。
遊郭編なんぞ、天元さんが莫大な資金にモノを言わせて吉原の各店舗に金を握らせ「女郎に朝の健康体操を絶対させるように。出席を拒否した者がいた場合は名前を教えてくれ」とでも言っておけば、鬼の潜伏している店舗の絞り込みは容易だったはずである。

【メタ的な視点による理由】

掲載誌が週刊少年ジャンプであったことから、お話はできるだけ明快な方が対象読者に伝わりやすいという現実がある。
もっとも現在同誌で連載している呪術廻戦の呪術師たちはかなり合理的な組織運営をしているので、「少年ジャンプであるから」というのは絶対的な理由とは言えない。

【作風のテーマとして必要だった】

「そういう作風だから」という身も蓋もない理由は、それゆえに大きな理由だと言える。

鬼滅の刃という作品は、情動を中心として物語が動いている。
そのあたりはラスボス無惨の台詞「お前達は口を開けば身内の仇とそればっかりでうんざりする(要約)」ということからもわかる
武士ではない大正の世の鬼殺隊にとって仇討ちは、まったく非合理的なお話だ。

逆に、ラスボスの無惨は合理主義の塊みたいな存在である。
彼の無能さを揶揄する声も多いが、無惨という隔絶した生物にとっては合理となる場合も多いのでこのあたりは別記事にて。

いずれにせよ鬼滅という作品は「情動」と「合理」という二つの考えが真っ向からぶつかるお話だと私は考えている。
実際生物的な本能からの合理性で考えたら無惨の言うように身内が死んでもそれを忘れて生きるのが正解なわけなのだから。

※※※

こういったことから「合理的な組織運営」というのはしっかり書けば書くほど作品のテーマからズレてしまう危険性がある。
繰り返しこの作品で語られる「長男」「家族」といったワードは、つまり鬼殺隊全体を家族として考え合理性で割り切れない関係たらしめていることを表現しているのだろう。
ある意味ではこのお話は、竈門家の長男炭治郎が、柱という義兄や義姉を持つことで彼らに揉まれていった物語であるとも言える。

【お館様がトップだからブラック】

組織がブラックなのは、そのトップの人物にある程度以上責任があるのは間違いない。

その点鬼殺隊という組織のトップお館様こと産屋敷耀哉は、組織の頭領としてはもう間違いなく徹底的にどうしようもない無能と言う他ない。
先述した組織の問題点を改善しようとしない、むしろ問題点を真摯に見つめ改善する意見を出す空気を溢れ出るカリスマのせいで殺しているところすらある。
産屋敷家のした組織にとってプラスとなったことと言えば、鬼殺隊の運営資金提供くらいだろう。
結論から先に言ってしまうとただのお財布で済ませていれば良かったのだが、なまじカリスマがあったばかりに……。

※※※

ただし、お館様がトップとして無能であることは擁護の余地がある。
まず産屋敷家の者は代々短命で病弱であり、組織の運営を学ぶ余裕がないという点がある。
自分の足で立つのがやっとの人生を歩む者に、広く長期的な視野が必要な組織運営を任せるのは酷であろう。

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こういう場合は「お館様」というトップのお飾りができあがり、実質的な組織運営は別の者が任されることになりがちなのだが鬼殺隊は良くも悪くもそういうところが無い。
柱が実質的な組織のトップと言えるが、彼らが全員お館様に心酔し具体的な改善案の提言や実行をしていない以上、やはりお館様がトップであることに変わりはない。

……最後のお館様を勤めた耀哉はある種化け物的な精神性の持ち主だから耐えられたが、正直なところ生まれついて病弱な体で、屈強な剣士たちに崇拝の目で見つめられ、千年も殺しきれていない鬼を滅ぼそうなどという組織のトップに立つなんて身体の前に心がぶっ壊れそうな気がする。
ぶっ壊れた結果がお館様だったのかもしれないが……。

※※※

また、ややメタ的な理由にも被るが産屋敷家は無惨と同じ血筋の家である。
……あの「頭無惨様」と虚仮にされる無惨様の親族が頭無惨様でないと証明できるかと言えば……。
あえて酷い言い方をするならば、本作の千年に渡る鬼との戦いの歴史は、頭が残念な産屋敷家の殺し合いとそれに巻き込まれた哀れな人々の歴史である。

【望まれた結果のブラック】

これは実際のブラック企業でありがちなお話である。
改善されることを望む社員も多いのだが、同時にブラックな経営方針でコキ使われ潰され消費され捨てられることを受け入れてしまっている社員もいる。
これは全く非合理な情動のお話であり「自分がここまで壊れたんだから他の社員も同じくらい壊れなければいけない」という破滅願望にも似た心理や、単に視野狭窄に陥り「救われる」ということをもはや考えたくも無い、一抹の希望すら見たくないという心理状態に陥っているなど色々な理由がある。

【鬼殺隊は隊員が気持ちよく死ぬための組織】

最初に鬼殺隊隊員の人命軽視を問題点としたが、これは実は隊員たち自身からすれば問題点ではないのかもしれない。
なんとなれば「鬼と戦って死ぬ」ことこそが鬼殺隊最大の目的なのではなかろうか?

というのも鬼殺隊隊員の多くは、鬼に家族や身内を殺された被害者遺族たちだからである。
彼らはほとんどが壮絶な経験をして入隊しており、多くが復讐の鬼と化している。

鬼殺隊隊員たちに、帰る家はもう無い。
優しい両親や、一生添い遂げようとした恋人、仲良く喧嘩したきょうだい、全てを賭してでも幸せにしたかった我が子……それらを失ったのが鬼殺隊隊員という人々なのだ。
炭治郎が「俺が余所の家でぬくぬくと寝ている間にあんな惨いことに」と第一話で後悔していたように、生き残った彼らは本人に責任はなくともどこか自責の念に捉われ続ける一生を送ることになる。
鬼になった身内をその手で殺さざるを得なかった不死川兄のような者までいる。その悔いと自罰的な感情はもはや計り知れない。

※※※

だからこそ、鬼殺隊は隊員にとって家族として機能する。
……そして悪魔的なことに、この擬似家族はやはり鬼に次々殺されていく。
隊員として鬼を斬れば斬るほど降り積もる、鬼と無力な自分への憎悪。
この状況で「自分は生き残る」「仲間も守る」「そうすればみんな強くなりやがては鬼も滅ぼせるかもしれない」などという楽観的で長期的な考えは「合理的」と考えられなくなっても不思議ではない。

鬼殺隊隊員がすぐに命を賭してでも何かを守ろうとするのは「それが一番楽になる道だから」という事実に飛びついている結果なのだ。
彼らは本当は民間人や仲間を守りたいのではない。失った身内を取り戻したいだけなのだ。
でもそんなものは絶対に帰ってこない。失われた命は決して元には戻らない。
なら同じ処に逝くしかない。

※※※

はっきり言ってしまえば鬼殺隊隊員の多くは遠回りな自殺志願者である。
しかし望む死は自殺では無い。身内に取り残された人の多くは「自分だけなぜ生き残ってしまったのだろう?」とその意味を求める。
現実で事故や災害、犯罪に巻き込まれた生存者が生き残った理由はただの偶然、運が分けたケースがほとんどだ。
そんな感傷の欠片もない事実で、被害者遺族に刻まれた心の傷は癒えることはない。
だから鬼殺隊隊員たちは復讐や敵討ちに生の意味を求めるのだが、先ほども述べたように遺族たちが本当に欲しいのは鬼の首級や、守った人々の感謝の言葉などではなく幸せだった昨日なのだ。

この決して得られないモノはただ死ぬだけでは手に入らない。
「先に逝った身内に『よく頑張ったね』と出迎えてもらえるくらい、精一杯戦って生きなければいけない」
という【実感】が必要である。
作中の鬼殺隊の活動は、この【実感】を得るために大変適したものになっている。

厳しい訓練に、同じ傷を分かち合える仲間たち。
鬼殺隊から給与によって生活保障がされているため、外の世界を忘れ組織内で閉じて視野狭窄となっていく精神。
そして、真正面から鬼と戦うことで劇的な死が得られやすい実戦。

※※※

鬼殺隊のブラックさは、隊員にとってそれが一番居心地の良い環境だから自然にそう帰結したと考えると腑に落ちる。
合理的に戦うということは、戦闘ではなく作業的な何かへと変わっていくのだから。

・鬼を捜索し、日光から隠れている暗所のねぐらを探して日中襲撃を常套とする。
・別々の呼吸の剣士をチームとして結成し、互いの短所を補い長所を生かす集団戦術の徹底。
・鬼との戦闘で窮地に陥ったら夜明けまで逃げ続けて、日中の内に戦闘メンバーを編成し直し日中襲撃。

効率的な鬼狩り方法はこういった戦略が考えられるにも関わらず行われないのは、これらが著しく情動からかけ離れた作戦行動となり、生存率が非常に高いことこそが原因なのだろう。
先に挙げた方法がもし徹底された場合、もはやそこにあるのは鬼との戦いではなく、日中まともに身動きできない出来損ないの不死者の首を寄ってたかって落とすだけの弱い者いじめである。
そんなものは復讐や敵討ちでは無い。そんな行為を続けた先にある長い人生を全うするのは、被害者遺族である鬼殺隊メンバーにとって望まぬ一生だろう。

※※※

だからと言って意識的に鬼殺隊がこのような組織に成っていったかというとそうではなく、遺族たちが中心となって存続している組織であることから自然にこうなっていったと見るべきだろう。
とくに悲惨な過去も経緯もなく入隊した隊員も相当数いるにはいるが、劇中での善逸や蜜璃といったその手のキャラの様子を見る限り、とても非合理性を糾弾できるようなキャラクターではない。
周囲が悲惨な被害者遺族ばかりの中「情に流されるな。大局を見据えろ」と言うのは凄まじいプレッシャーがかかる。口にしても聞かなかったことにされる可能性も高い。

【まとめると】

鬼殺隊は色々な目的を混同していると思われる。そこを明確にしないから組織としての体を成していない。

・鬼を狩ること
・無惨を討伐すること
・鬼から民間人を守ること
・鬼の被害者の心身をケアすること

これらは全て、違う目的である。だが絡み合っているのは事実である。だから混同しているのだ。

無惨を討伐しなければ、鬼は滅びない。
それゆえに鬼狩りはただの対処でしかない。
しかしその対処で未然に被害を防げるならば、それは立派な仕事である。それでも出てしまった被害者遺族のケアもまた大事な仕事である。

この四つの仕事はそれぞれ違う組織でやってもいいくらい、必要とされる能力が違う。とくにケアに関してはまったく戦闘能力が必要ない。
民間人保護も必要最低限のそれで十分だが、そのかわり人手の数が必要である。

そして無惨はいつまでたっても発見できていないのだから、無惨討伐を目的とする人員もまず情報収集とその解析という情報処理能力こそがもっとも必要とされる。戦闘能力はやはり必要ない。
一応非戦闘部隊の「隠」や蝶屋敷のような医療部隊も存在はするが、これらの役割分担をもっと突き詰めるという発想が致命的に欠けていた。というか、試験脱落者が「隠」入りするというのは適切な人材の選抜ができないだけでなく劣等感の温床になりそうな気がするのだが……。

※※※

こういったことに気づけなかったのは、組織トップの無能さと隊員たちの大半が冷静な判断能力に欠けた復讐者であったという複合的な理由なのだろう。
鬼との戦いは闇の中で行われ続けてきた。それは夜闇の中での戦いでもあり、また世間に鬼の存在を知らしめない戦いという意味でもある。
その結果、鬼殺隊自体も視野狭窄に陥りもはや組織ではなくただの復讐鬼の集団と化していた。深淵を覗く時、深淵もまたというやつである。

この戦いに終止符を打ったのが復讐心だけで刀を振るうのではなく、身内に鬼を持ち、鬼に慈愛の刃を振るえる炭治郎だったのは必然と言える。

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