なろう系が嫌いな人はなろう系が需要ある社会が許せないんだと思うよ説
ちょっとコメント欄書き込みしに行くとSNSってのァこうしてオススメ記事として安易に出してきやがるから……。
しかしまぁ一応底辺作家としてなろうで書いたり、防振りとかキジトラルークなどのコミックスは読んでいるわけでして、私とて一家言持ってないわけじゃあ無ェわけでして。
【テンプレとはシェアワールドの言い換え】
日本のサブカル界隈においてシェアワールドというのは発展しそうで、実態はそうでもない土壌にあると私は思っています。
シェアワールドがどういうものかよくわかんねーって人のためにwikipedia先生への該当記事リンクを貼りましたが、わかる人にはわかる例えはSCP財団やクトゥルフ神話大系でしょうかね。
どちらも英語圏で発展した文化で、日本にも流入して一定以上の人気を得ていますが、ガッチゴチの世界観なので初心者お断りの敷居が高いイメージがあります。
余談ですが東方Projectの幻想郷も、神主ことZUNのゆるゆる二次創作への方針からシェアワールドの一つとして見て良いと私は考えています。
【なろう系のテンプレ的異世界や展開は一つのシェアワールド】
ってなわけで、暗黙の共通観念として築き上げられたあのファンタジー異世界やらテンプレートに則った展開は、日本のSNS界隈で発展したゆるゆるシェアワールドなんじゃね?ってのが持論です。
上記の例の通り、フリーシェアワールドは設定がガッチゴチなので敷居が高い。創作者側としてはカノンと矛盾なく、あるいは新たなカノンの切り口を開くのはセンスがいるし、受け手側としても用語や数々のカノンがありすぎると混乱して敬遠し、衰退の一途を辿ります。
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どっこいその点はゆるゆるで構わないのがあのなろう系異世界。
説明不要で間口が広く、解釈多用で独自設定全然OK。
どっかの面倒臭い知識武装したオタクが「おかしい!矛盾している!」とツッコミを入れることは避けやすく(なおポテト警察というスラングがある程度にはいることにはいる)作者にも読者にも易しい世界。
【テンプレ的展開は安心感がある】
「時代劇は大体テンプレに則ったドラマになっている」という例を出したいのですが、伝わりますかね?
ヒーローが日常生活を送っていると、謂れ無き困難に打ちひしがれる弱者と交流し、その原因を作っている悪党がいて、まぁ色々あるけど悪党は成敗されて困っている弱者は救われる。
まぁ大体こんな感じですね。
アンパンマンだって「新しい顔よ!」→「元気百倍!」→「ばいばいきーん」はお約束。
テンプレ展開、王道はやはり良い。安心するのです。
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で、なろう系って実はかなり上記のようなストーリーが今風に解釈されているだけで一緒だったりするんですよ。
異世界転生した主人公って時点で、そもそも天寿を全うできたキャラクターが少ないんですよ。
若くしてトラックに轢殺されたり病気で死んだりイジメを苦にして自殺したり死因は覚えちゃいねーけど爺婆にはなってなかったなーとか朧気には覚えていたり。
普通にこの時点で現実基準で考えると不幸ですよねと。
ここにさらに主人公はスタート時点で逆境を加えられることが多いです。
悪役令嬢として破滅の運命が待っていることが確定していたり
パーティーから酷い理由で追放されたり
ハズレスキルしか持っていなかったり
こういった逆境が複数重なっていることも多い。
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さて昔話を紐解くと、一寸法師にシンデレラ、白雪姫に三年寝太郎など、生まれついてのハンデや家庭環境での冷遇、そもそも本人自身やる気が無ェ奴などの世間的レッテルを貼られている、そういう底辺に一度は落ちた主人公が周りを驚愕させて大きな功績を挙げるという物語は古来より別に珍しかないのです。
貴種流離譚という言葉すらあるくらいです。
どっかの大工の息子でニート生活を続けたおっさんが世迷言フカしていたらいつのまにか磔刑されて復活したとかいう話もあります。
ようするに落ちぶれた主人公が周囲を見返す物語はウケる。
これは人類史が証明しているアーキタイプと言えます。
【ランキングシステムと、商業化による落差】
このように「なろう系」と蔑まれる物語は実際のところ、大変に一般受けしやすい物語として洗練されています。
事実なろうのランキング上位に食い込むような作品は流行を取り入れつつ、そこに独自の要素を加え、ストーリー展開もキャラクターの掛け合いも面白いように工夫し、さらに連載を継続できる作者の総合能力があるからこそランキング上位なのです。
そうしたランキング上位の安定して面白い作品を読者は隙間時間にサッと読んでスカッとする。
「小説家になろう」というサイトそのものはこんな感じです。
ここには承認欲求を満たすためにマーケティングを凝らした作品を書く作者側と、単純に面白い不快にならない作品を読みたい現代人の暗黙の了解による需要と供給の取引が成立しています。
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ただ「小説家になろう」というサイト名からして商業作家になるため作品を投稿している作者は多く、実際に商業化された作品はあまりにも多すぎるから皆さん辟易しているわけでして。
無料でいる分には、一つのサイトに収まっている分には、良いのです。
目につきにくいし、作者は労力を割いてもお金は貰っていない。いわば読者への奉仕なのですから。
しかし商業化するとなると、一気に目につくようになります。
成功してアニメ化ゲーム化果ては映画化まで行った作品は大きな利益を作者にもたらしているでしょう。
この「マーケティングに完全特化した小説が成功し受け入れられている」という部分こそが、不快感の原因なのではないかと。
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これ偏見の塊なんですよね。漫画や音楽にゲームなどの制作と違って、小説はスマホ一台あれば書けるので。
「ストーリー展開もキャラクターもみんな頭が悪すぎる」「設定に矛盾や粗が多い」「こんなもん自分でも書ける」など、まぁこういう風に思ってしまう。
私はこう思っています。
おうならやってみろや。
今すぐなろうのランキング上位に食い込んで商業化されてみろや。
作品がアホ全開に見えても、作者がバカなわけがありません。
むしろ頭の悪い展開だと理解してなお読者を引き込むパワーやテンポを持つストーリーとキャラクターを書き続けるというのは、正に「小説家になろう」という心意気で自分が本当に書きたいものを押し殺してでも読者に奉仕するスタンスで書くということとほぼ同義。
それが平気な性格の人もいるので、別に誰も彼もが本心辛いわけじゃないんですけれども。
ただ、無事商業化されても実際そこにあるのは「成功」なのか?という問題もあります。
【氾濫する商業なろう系作品への印象】
結果、なろう原作コミックはものすごく多く、アニメ化もされたのなら否が応にでも目につきます。
こうなると普段文章を、文章による物語を読まない人たちがなろう原作作品に触れることになる。
結果、上述したような「こんなもん自分でも書ける」という小説を書くということの労力や継続しなければいけないという事実を知らない人の勘違いや偏見を受けることになります。
ここにはつまるところ「こんな作品が受ける世の中は間違っている」という怒りも同時にあります。
しかし商業化されたとして、果たして本当に受けているのでしょうか?
【氷山の一角を全てと思い込む】
商業化される作品は確かに多い。
多いですが、しかしその商業化された作品が売れるとは限らない。
あくまで成功したのはその商業化された作品の中のさらにごく一握り。
選別された中の選別者であり、甲子園の準決勝戦以上くらいの学校だけを見てそれらに敗北した数多の球児たちを見ていないのも同義なのです。
でも売れているか売れていないかどうかはともかくとして、毎クールアニメではなろう原作の作品が放送されていたり、コミックスに至ってはもはや把握しきれない量です。目にはつく。興味がないのに出てくる。うざい。
そうした、実は採算が取れているかどうかもわからない、商業作家として成功できるほどの実力は無かったと思い知らされた無数の作家がいるということにまで想像が及ぶ人なんて、少数派です。
とにかく現実として目の前にあるのは無数の氾濫したなろう系作品なのですから。
【でも無意識化では気づいているからウザいんじゃないの?】
この結論はちょっと私が性善説の信奉者すぎるところがあるかもしれませんが。
「小説家になろう」という心意気で執筆して商業化が決まったらそりゃ嬉しいでしょう。
でも本当のところ、そこがゴールじゃない。むしろ小説家として、作家としてはスタートラインなのです。
数多のライバルを蹴落とし、メディアミックスされる際にはどのような漫画家と組めるかどうかは運次第なところもあり、アニメ化まで漕ぎつけたとしてもテキトーな作りのせいでむしろ原作の人気が落ちたという例まであるくらいです。
実力だけでなく運も関わってくるシビアな世界であることは、なろうであろうと一切変わりません。
ようするに出版社側としては「数撃ちゃ当たるかもしれない弾がわざわざ自分から出てくるサイト」というのがなろうの側面でもあります。
こういった商業社側の搾取とも言えるスタンスは、昔っから低い原稿料や賃金でカツカツの生活をしながら漫画やアニメを描いている方々の多さから知られていることでしょうが。
小説は確かに漫画やアニメに比べると兼業しやすくリスクが低いのですが、才能の搾取という点では変わらない。
【総論として】
見たくもない低レベル(に見える)作品が氾濫している現状
そんなものが評価されている(ように見える)現代社会
実態としては成功者なんて数少ないのを承知で商業デビューさせる会社
まぁこういったものがあって「なろう系」は嫌われバカにされる定めにあるのでしょう。
ただこれは18年も前のケータイ小説「赤い糸」が大成功した時、既にこうした未来になるだろうという意見も散見されたのです。
ケータイで安易に誰でも小説を書けるのなら、このままウェブネットワークの通信技術が発展し続ければ、近い将来低レベルな文学作品が横行するのでは、という危険視あるいは諦観が。
そもそも小説という文化自体、萌芽した時はバカにされていたのです。だから「小説」であり、取るに足らない代物だと。
なんか文豪が偉そうにしていた昭和時代の方がおかしいのであって、ラノベが出てきてから時代が一周したと言えるでしょう。ラノベの歴史も昭和末期に食い込むから結構長いですけどね……。
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ちなみに私個人としては「ストーリーはどうでもいいが絵柄や演出が気に入った」としてコミカライズした漫画家先生の方に注目することが多かったり。
たまに無名な(それこそXやpixivなどでも見かけなかった)新人漫画家が、なろう原作の作品を手掛けてそのレベルの高さで「何もんだコイツ?」と驚かせることもありますからね。
往々にしてプロ漫画家のアシスタント出身という経歴だったりしますが。
そういう意味でも、出版社的には実験場としての側面が強いのが「なろう系」という正負併せ持つジャンルだと思います。
現代社会の闇と言われたら闇かもしれませんが、黄表紙の作家だって無名のまま没しているんだからいつの時代だってこんなもんだよと私は諦観しています。
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