見出し画像

鬼殺隊は愛を取り戻せ

今回は前回記事の最後の方で触れた、鬼殺隊と慈愛についてのお話をしたいと思う。
しかしタイトルがなんかこうしっくり短く来るのが思いつかなかったのでyouはshockにしたけど北斗の拳とは全く関係がない。

【無惨討伐に貢献した三つの要素】


無惨を滅ぼした要素は複数ある。その中でもとくに大きな要素が以下の三つだと私は考えている。

・縁壱が無惨に刻んだ傷
・珠世の数百年の怨念が凝り固まった毒
・鬼の王と成った炭治郎を人間に戻した、禰豆子の家族愛

次点として「鳴女=無限城を(結果的に)崩壊させた愈史郎の血鬼術」も続くが、これは間接的に珠世の貢献に入れていいと思うので割愛。
漫画本編の主な見せ場となった鬼殺隊の戦い、及び産屋敷耀哉の自爆も当然大きいのだが、これは縁壱と珠世の用意した無惨討伐の意志を補助する程度のもので、実質的に無惨を討伐したのはこの二人だと私は解釈している。
というのも、鬼殺隊が交戦した時の無惨はこの二人が施した癒えない傷と毒の効果によって著しく弱体化していたにも関わらず、それでも別次元の強さで圧倒していたからである。
これが万全な状態であったなら話にもならず一蹴されていたのは間違いない。

※※※

とくに珠世は無惨討伐にもっとも貢献していると私は思う。劇中で出番は少ないが、本作の主軸を無惨討伐として考えると彼女が主役と言ってもいい。
彼女は鬼にされてしまったが故に悠久の時を過ごし、鬼殺隊では叶わない対無惨用の薬毒知識を数百年にかけて研究していくことができた。
また、後述するが禰豆子を人間に戻したのも無惨討伐最後の要になっている。

※※※

縁壱は本人から言わせれば「自分は無惨を滅ぼすために生を受けた存在なのにしくじってしまった」というくらいの超存在であり、しくじりはしたものの無惨討伐に必要なものを後世にいくつも残している。
ただ、劇中で大きなピックアップ要素となったヒノカミ神楽に関しては実はかなりどうでもいいというか、小さいものだろう。あの一連のお話で大切なのは日の呼吸ではなく、縁壱の人生が敗北だらけでも無駄ではなかったということなのだ。
彼が遺した一番大きな要素は本人が刻んだ傷だが、珠世を生かしたことも非常に大きい。
先ほど述べたように、私は珠世こそが無惨を滅ぼした主役だと考えている。そんな彼女をただ「鬼だから」と斬らなかった縁壱の選択は間違っていなかった。

【慈愛には合理性が含まれている】

ここで今回の記事の主題に戻るのだが、縁壱もまた慈愛の刃を振るうことができる人物だったと言える。
無惨が爆発四散して逃亡した後に残された珠世の言動から、彼女が無惨の呪縛から解き放たれた例外的な鬼だと看做し縁壱は斬らなかった。そして冷静に彼女と話し合いをして「自分の寿命が尽きるまで無惨が逃げ続けるなら、永い時を生きられる珠世に意志を託す」という選択を、情動に流されず実行することができたのである。
とかくこの鬼滅の刃という作品は、鬼の非道による怒りや哀しみで我を見失い、大局的な選択ができないキャラクターが多すぎる。
合理的に「こいつは利用できる」と判断するのは慈愛でもなんでもないが、怒りや哀しみで憎き者は皆殺しにするという妄執に囚われずにいったん許し、利用するにはやはり負の感情を飲み込む愛が必要であろう。

※※※

思うに、鬼殺隊がもっと慈愛を習慣的に鬼へと向けることができたならば事態は変わっていたのではなかろうか。
猗窩座などは「お喋り好き」と自認するくらい話すのが好きな鬼だ。煉獄戦での彼は、交戦より勧誘を重視していたくらいである。おもいっきり話し合いができている。
煉獄さんが「鬼に成るのはお断りするが、君はなぜそこまで武の追求にこだわるのか」「日光を浴びたら死んでしまう儚い存在が本当に至高の存在なのか?」などいくらでもある議論の種に花咲かせながら戦っていれば、時間稼ぎできていれば、日が昇って猗窩座は無収穫で撤退せざるを得なかっただろう。
武力ではなく対話で事態を解決できる兆しがあったのに、それを見出せなかったのは鬼殺隊の「鬼の首は全て落とす」という慣習に縛られていたせいである。

最終的に首を落とすとしても、鬼とは全てかつては人間であり、無惨のエゴで歪めさせられた被害者なのである。
形が違うだけで、被害者遺族である鬼殺隊とは本質的には同じ穴の狢なのだ。それを認めたうえで人食いという罪を重ね続けさせずいっそ首を落として介錯してやることこそが鬼殺隊の役割なのだということを徹底教育するべきだったのではないか。
そういう慣習ができていれば、出会い頭に斬られる心配も薄くなり珠世ももっと早く鬼殺隊と接触することができ、合同作戦や研究も取りやすかったかもしれない。そうすればもっと早く無惨討伐も成ったかもしれないのだ。

※※※

鬼殺隊の慈愛の無さによる弊害は縁壱が珠世を見逃した、無惨討伐失敗の件で一種の頂点を迎えている。
確かに縁壱は無惨を取り逃した。例外的に珠世も見逃した。兄の巌勝はお館様の首を手土産に裏切った。
だが討伐失敗したものの無惨を弱体化させ、その情報を入手した功績はとんでもなく大きい。珠世の件は上述した通り。兄の件についてはそもそも縁壱自身にはなんの咎もない話であり他の功績を考えれば帳尻を合わせてまだお釣りが来る。
つまるところ、縁壱を隊から追放した隊員たちは「お館様が殺された」「痣の影響で次々強い剣士が死んでいく」という現状の不安、不満要素をたまたまタイミング悪く失態が重なった縁壱をスケープゴートにして腹癒せにしただけに過ぎない。
慈愛のない組織内で慈愛を見せたら失脚させられたのだ。あまりに現実的な話で、正直本作の中でもっとも人間の醜さが露出したシーンのような気すらする。もっと過激な人間の醜悪さが露呈するエピソードは他にもあるが、この件は本当にいやに生々しい。
この時に鬼殺隊がやるべきことは人生で初めての挫折を味わい、身内を無惨に奪われて傷心の縁壱を支え、弱体化した無惨を草の根分けてでも探してトドメを刺すことだったのではないか。それこそが組織が組織たる所以ではないのか。
慈愛のない武装組織は、ただの暴徒に過ぎない。

【禰豆子という切り札】


さて最後に持ってきたが、無惨討伐を本当の意味で成功させるために必要だった最後の鍵は禰豆子である。
最終決戦時はすっかり影が薄くなってしまった彼女だが、鬼滅の刃という作品を終わらせるためには禰豆子が絶対的に必要であった。

鬼滅の刃の第一話は、鬼に成ってしまった妹が、兄の愛によって正気に戻るという流れである。
一方で無惨との最終決戦後の展開は、鬼の王にされてしまった兄が、妹の愛によって正気に戻るという流れである。
あの第一話の雪の日に旅立った兄妹は、数々の苦難を経て鏡で映したかのように互いへの家族愛で家に帰ることができたのだ。

この最終決戦後の展開こそ、鬼滅のテーマが収束する素晴らしいエピソードだと私はベタ褒めに評価したい。
というのも、今まで挙げた「無惨討伐に必要だった要素」は色々述べたものの、究極的には無惨への絶対的な殺意に塗り固められた、決して清廉ではない感情の塊だ。
だが、そうした剥き出しの殺意こそが、人を「鬼」に変えるのだ。
あの巨大な赤ん坊の姿の無惨にトドメを刺すものは、別に炭治郎でなくとも良かっただろう。一定以上の意志と剣腕があれば、あそこまでお膳立てされた以上は鬼殺隊の殺意で討てないはずがない。

私の想いもまた不滅なのだ。永遠なのだ
私はこの子供に想いの全てを託すことにする

鬼舞辻無惨 201話「鬼の王」より

だが受け継がれる遺志、継承される想いとはいつだって清廉潔白で尊ぶべきものばかりではない。
いやむしろ悪念、邪念、哀しみと嘆きの連鎖を生み出す妄念の方が受け継がれやすい。
なんとなれば、鬼殺隊の無惨への殺意こそが悪念ではないか。そんな悪念で討った悪念が、より恐ろしい悪を生み出さないと誰が言えるだろう?
どれほど言葉で飾ろうと、無惨に突き立てた日輪刀は真っ黒な殺意で凝り固められた、人間の醜悪な殺意の塊である。そこに導いた想いに慈愛があろうと、刃そのものの呪いは全く変わりがない。

※※※

故に、仮に炭治郎以外が無惨を討とうと「自分を討つほどの想いの継承」という事実に永遠に取り憑かれた無惨が着目しないはずがなく、縁壱みたいな規格外の剣士以外はまず鬼の王にされると思っていい。
無惨を討てるほどに心身ともに鍛え抜いた剣士は、皮肉にもそのまま鬼の王に成れる素質があるのだ。

だが、この悪念の連鎖は竈門兄妹の家族愛で断ち切られる。
最後の最後に愛が無ければ、鬼狩りと鬼の千年に及ぶ暗夜の戦いを終わらせることができなかっただろう。
だからこそ、私は「慈愛が無ければこの物語は終わらせられなかった」と思うわけである。

【最後にフォローポイント】


一応鬼殺隊に欠片も慈愛が無かったわけではないのは作中から伺える。
水の呼吸伍ノ型「干天の慈雨」は対象への苦痛を最小限に抑えた介錯の剣撃である。
これが比較的古い数字の一桁台の時点で編み出され失伝されることなく伝わっていることから考えても、鬼殺隊の剣士全てが鬼憎しの感情に染まりきっていたわけではないのがわかる。

先ほどは酷評した縁壱処罰の一件でも、煉獄家由縁と思しき剣士が縁壱を庇っているように鬼殺隊の中でも縁壱に同情する声は他にもあったと考えてもそう無理な話ではない。
縁壱の性格を考慮しつつ、組織の体というものも考えると仮に縁壱を庇う隊員の方が多数派であったとしても、縁壱を許せない隊員もまた無視できない数であった場合は組織が空中分解する恐れがあるので、原因の縁壱を追放するのが一番平穏な選択だったというのが真相なのだろう。
まぁ正直な所一度空中分解なり分裂するなりしてしまい、ゼロからやり直した方が組織としては健全になれたのではなかろうかとも思うのだが……。

組織というのは、当然のことながら多数の異なる意見や才能に技術を持つ人々が集うことで形成される。
それ故に、必ず派閥というものが本来なら生まれる。ところが鬼殺隊は不自然なまでに一枚岩だ。悪意ある見方をすればお館様に洗脳された殉教集団にすら見える。
これに関しては考察を投げ捨ててもうはっきりと作者のワニ先生の作風や力不足という他ない。
鬼殺隊にも慈愛の心を受け継ぐ人々は少数派ながらいたのだろう。だが彼らが小さい派閥にすら成らなかったというのは不自然であり、そうであるならばとっくの昔に「干天の慈雨」などは失伝されていたと私は思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?