思考について思考する

私は思考することが好きであり、思考する人が好きであり、思考が好きである。
そういうわけで、今日は思考について思考したい。

「思考する」とは、「思う」ことと「考える」ことだ。
「思う」ことと「考える」ことはどちらも頭の中で起こる現象として「思考」としてひとまとめのものと思うことも考えることもできるが、それらを別々のものと思うことも考えることもできる。

私の思う、「思う」/「考える」の区別はざっと以下のようなものだ。

思う/考える

読む/書く
聞く/話す
問題を見つける/解決する
楽しむ/遊ぶ
味わう/味付けする
etc

私は「思う」は、「読む」や「聞く」や「感じる」や「問題を見つける」や「楽しむ」や「味わう」に似ていると思うし、「考える」は「書く」や「話す」や「解決する」や「遊ぶ」や「味付けする」に似ていると思う。

本を読むと何かを思うし、文章を書くときは考えている。
話を聞くと何かを思うし、何かを話そうとするときは考えている。
何かを問題だと思い、解決方法を考えるし、楽しいや美味しいは思うことで、遊びや味付けは考えている。

私は、そう思う。
では、だからどうなのか、というのを考えてみたい。

まず、「思う」ことと「考える」ことは違うことだと考えると、思考という頭の働きを少しだけ細分化できる。

「思う」ことは、情報や刺激に対して頭で反応することだ。それは、自然発生する頭の働きで、身体に置き換えれば感覚に近いものだと考えることができる。

逆に、「考える」ことは、情報や刺激に反応した「思い」を組み立てて、体系化していく作業だ。身体に置き換えれば、行動に近いものだと考えることができる。

そして、このように「思う」ことと「考える」ことを切り分けてみると、自分の頭の中で起こっている現象が、その2つのどちらかなのか整理することができる。
今まさにこれを書きながら私が組み立てようとしているのは「考え」であり、ここまで来るまでにまだ組み立てられていなかったもの、あるいはまだこれから組み立てようとしているものは「思い」だ。

さらに、自分の頭で起こっていることが「思う」ことと「考える」ことに切り分けられれば、人の頭で起こっていることも「思う」ことと「考える」ことに整理できる。

さて、そんな風に考えてみると、私は以下のようなことを思う。
「思う」ことへの態度、「考える」ことへの態度は人それぞれだよなあということだ。

「思う」ことが得意で好きな人もいれば、「考える」ことが得意で好きな人もいる。どちらかが苦手な人もいれば、どちらも好きだったりどちらも嫌いだったりする人もいる。

自分はどうなのかなと考えてみると、これまた色んなことを思う。

私は大学の頃文学部に在籍していて、学生演劇のようなことをしていたのだが、そこで出会う人達の「思う」力の強さ大きさにはいつも圧倒されていた。
みんな色んな本を読んで、色んな映画やお芝居を見て、色んなことを思っていた。みんな社会について様々な思いを持っていた。
もちろん、みんなよく「考える」人達でもあったけれど、私は彼/彼女らの「思う」力の方をより強く尊敬していた。
自分は、みんなに比べると、あんまり何も思ってこなかったな、と感じていたし、大学生活を通して自分も以前より少し、「思う」ことが得意になったように思っている。

逆に、社会人になってから私は、「考える」力の強い人達が周りに増えたように思う。
私は現在テレビゲームを開発する現場で働いているのだが、そこで活躍している人達はみなとてもよく「考える」。
正直なところ、今まで私は自分の「考える」力にはちょっと自信を持っていた。大学時代も「思う」力で周囲の人に圧倒されることはあれど、「考える」ことにかけてはみなと渡り合えている自信があった。
けれど、今はむしろ「考える」ことの足りなさを「思う」ことで補っているような思考が働いている。

「思う」ことと「考える」ことへの態度も相対的なもので、自分がどちらか一方だけをより大切にしているということもあまりないのだなということが分かってきた。

あれ?「分かる」ってなんだろう?新キャラだ。
まあいいや、それは今度改めて考えよう、と思った。

要するに、「思考する」ことには「思う」ことと「考える」ことがあって、それらは区別することもできるが、相互に関係し合って「思考」というひとまとまりの頭の働きと捉えることもできるということだ。(思考はいつだってこんな風にぐるっと回ってくる!だから頭は「回転」のイメージで表現されるのかも?)

感覚と運動がどちらか一方だけではバランスを失って何も機能しなくなるように、思うことと考えることも2つ別々でありなおかつ2つで1つとして大事なものだと思い、考えた。




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