見出し画像

宗教ってなんだろう。

お寺に生まれた私は高校から実家を離れた。15歳で実家から宗教から逃げたのだ。

自分の人生は自分で切り開く。宗教なんか必要ない。と考えていたように思う。それでも22歳のとき、住職であった父の病気がきっかけで3年間ほど京都で仏教の勉強をし、僧侶の資格を取らせていただいた。資格はいただいたが、仏教や宗教にはどうしても馴染めぬままで、アルバイトの仲間たちといるほうが居心地がよかった。

それがいつのまにか、桜が咲いてゆくように、だんだんとそして急に宗教・仏教に興味を持ち始めたから不思議だ。

宗教とはなんだろう。
中国の曇鸞大師(どんらんだいし)という方が往生論註(おうじょうろんちゅう)という書物のなかで
「春秋を知らない蝉は、自分が生きている季節が夏だということを知らない。四季を知っているものだけが、蝉は夏を生きていることを知っている」といわれているが、これを曇鸞大師の意図を離れ、拡大解釈してこのように読むことができないだろうか。
「人間も春秋を知らない蝉のようなもので、この命がどこからやってきて、どこへむかっていくのかを知らない。であれば、どんなに命の意味・生きる意味を考えたとしてもわかるはずがない。知りたいならばそれを知っているものに聞くしかないのだ。」と。

いつぞやの朝日新聞に掲載されていた読者投稿に
おばあちゃんが、孫の枕元で絵本を読んであげる。するとその孫がポロポロと涙を流し、「なんでだろう。涙が出た」とおばあちゃんに話したという記事があった。この「なんでだろう。涙が出た」という言葉が、ここ最近あとをついて離れなかった。
私は、”なんでだろう”という言葉を最近使わなくなったように思う。きっと大人になる過程で引き出しの奥にしまいこんで、その代わりにわかったフリをするのが上手くなったのだ。
その子の問いにおばあちゃんも「なんでだろうね〜」と返すかもしれない。理由がわかるのでもない。わからないのでもない。ちょうどその間の言葉、「なんでだろう」はどこまでも潜っていけるようなとても心地よい言葉だと思った。そして、生きる意味、死ぬ意味、ほか多くのことについても、わかったフリをせずもっと”なんでだろう”と向き合うことが必要なのではないだろうかとも。

なんでだろうという問いに対して、教え導き、時に支えてくれるものが宗教なのではないだろうか。それが私にとっては仏教で、他の人にはキリスト教かもしれないしイスラム教かもしれない、またはユダヤ教かもしれないし他の宗教かも。

答えは知っている人に教えてもらおう。蝉はどんなに一生懸命鳴いたって夏を知らないのだから。


薩摩川内市 願生寺 亀田信暁


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?