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第9回「自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。」山田 バウ 氏

山田 バウ 氏

1951年大阪生まれ。高校中退後、渡米。アメリカやカナダで旅行の現地添乗員となる。カナダでカヌーと出会い、帰国後、日本にカヌーを広める立役者となる。
1990年頃、ある出会いから仕事を辞め一人で1300以上の自治体を回り、オゾン層破壊を食い止めるためフロンガス回収を訴える。1995年1月、阪神大震災直後に神戸入り、2002年までの7年間半、神戸復興と人々の支援を行うNGO神戸元気村の代表を務める。
日本海重油流出事故時には、1人ヒシャク片手に海に浮かぶ重油をすくい始めたことがきっかけになり、人の力で日本海を救う活動が生まれる。神戸、福井をはじめ、日本各地の災害地でボランティア組織の結成など各分野で活動。
911テロ後には、グローバルピースキャンペーンの取りまとめ役として、数千万円の寄付を集め、アメリカ主要新聞に報復 戦争回避のための意見広告を出すことにも寄与した。

テンプル――
私は日頃から、バウさんの発想の規模の大きさに驚いています。大きな視点から物事を考えられる発想力、またその物事を成し遂げるその原動力について聞かせて下さい。

山田――
1~10番まで番号を振って理由づけをしようと思えばできます。いろんな状況が考えられますが、例えばどんなことを聞きたいですか?

テンプル――
例えば、プロジェクトの多くは、前々からそれに向け、計画を練ったり人や資金を集めたりと時間をかけて準備をしていきますよね。一方、神戸や日本海の重油流出など、大規模の災害の時には、物事が突然、しかも想定外の大きさで起こります。

神戸の震災は日本人全てに衝撃を与えました。バウさんにとっても『フロンガス回収の活動がある程度成果を出したので、そろそろ元のカヌーの仕事に戻ろう、静かな自分の人生に戻ろう』と思っていた矢先の地震だったと聞いています。それでもすぐに神戸に入られ活動を開始されています。

その前、オゾン層保護活動を始められた時も、カヌーの仕事で出会った方から『フロンガスが地球のオゾン層を破壊させている。バウさん、どうかしてほしい』と頼まれたことが発端でした。そしてすぐにカヌーの仕事を辞め『地球のオゾン層を守るために市町村レベルでフロンガス回収に取り組んでほしい』と一人で全国津々浦々の自治体を回り始めます。

普通というか、私の場合は、抱えている仕事や状況を考えて足踏みしているうちに、動かないことを選択してしまいます。私がやらなくても他の人がやるに違いない・・・と、動かない言い訳を考えたりしてしまいます。

災害や事故が起こったとき、何故すぐに行動出来たのか。しかも誰かについて行くのではなく、バウさんご自身でどんどん新しい道や方法を見つけ切り拓いている。そのパワーとリーダーシップについてお聞きしたいです。

山田――
僕の場合、長期に計画をたてて動くということは皆無。常に直前。『良し!』と決めたとたん形があらわれて、必要な人数やものが一瞬の間に浮かんで、そこから長期計画になるわけ。たとえ3日間のプロジェクトでも、3日間という長期プロジェクト。でも決まるのは一瞬。何か出来事を見た瞬間、知った瞬間、すべきことが全て決まる。

テンプル――
5年後、10年後の自分の人生設計や未来のために今こうしよう、1年後はこうしよう、という計画で動くことはないんですか?

山田――
無い、無い、無い! そもそも、そんなふうに地球は出来上がってないし、そんな長期の計画で地球も人間も動いてない。人間すべてがそんな長期計画で動いているハズがないでしょう。

テンプル――
会社だと必ず10年計画を立てましょう、5年計画を立てましょうと言われます。

山田――
それがおかしい。大きな会社だと30年勤めた、定年まで勤めた、その間にノルマがあった、売上げがどうだった、管理職になった、いろいろあるでしょう。でも、そういう先のよめる人生は僕にとっては意味がないんです。まして上司から言われて『来週から浜松転勤だ』みたいな人生は僕にとっては意味がない。だから3年後、5年後の計画なんて僕には全くない。

テンプル――
過去にも、子供時代にも計画したことは何も無かったんですか? カヌーで1年後はどこに行こうとか、3年後にはここに行きたいなぁとか、そういうのも無いんですか?

山田――
無い、無い。何を考えているの?そんなことが基本になる頭を持ってて何をしたいの?そういうシステムで地球が動いてないのに、なんで計画なんかするの?大手の会社は人を雇うときにそういう手法が楽だから使っているけど、僕はそういった会社に入るハズもない。世界観が違うとわかっているから。

テンプル――
若い頃はカナダで旅行のお仕事をされていらっしゃいましたよね。あのときは会社勤めではなかったんですか?

山田――
カナダの西海岸に行ったのは、まず英語を話せるようになりたいという個人の理由があったこと。旅行も大手のパッケージツアーから個人旅行に需要が出てきた。経済的に豊かな人が個人で海外旅行をし始めた頃で、100%オリジナルのオーダーメイドの旅行を企画できた。だから大手の旅行会社がオプショナルツアーの企画を僕に依頼して自由に作らせてくれたんだね。明日は決まっていなかったし、予定通りに動いてほしいとか、予定通りにやってほしいとか、そういう仕事でもなかった。ガイドではなく、その旅行プランを作る仕事だったんだ。

プランニングの仕事というものは、顧客が求めているものを察知したり、マーケティングやバランス感覚がないと出来ない仕事。そのバランス感覚は、その後僕が関わってきた全てのプロジェクトにも当てはまる。話を元に戻すと、先のことを計画したり、1年後にどこに行こうとかは自分の旅行でも全くない。スケジュール表も持ってない。だから反対に、同じ会社に30年間勤められる人は尊敬を感じる。僕にはできないことだし、僕にはない資質だからね。

テンプル――
本来は自分もそういうふうにスケジュール通りに生きたほうが生きやすいなぁと思っていらっしゃいます?

山田――
その日本語の使い方は間違ってる。言葉を1つずつ組み合わせて1つの文章にしているけど、全体からみるとおかしい。本来は・・・と言うことは『そもそも間違っている』ということが前提になっているよね。

昨日たまたま話題に出たんだけど、僕は成人式にも行ってない。あんな100人も200人も並んで、偉い人たちの話を1時間も2時間も椅子に座って聞いているなんて。そんな時間があったら、散歩しているほうがいい。

テンプル――
バウさんのこれまでのプロジェクトを見てみると、役所との交渉なしには成し遂げられないことばかりですよね。成人式が嫌いなバウさんが、生き方も考え方も違う役所の方々との交渉、どうやってまとめられたんですか?

山田――
本来は・・・というような人たちの考えが僕には手に取るように分かるし『間違いだらけだな』と思いながらも尊敬の思いで話ができるからだと思うよ。

テンプル――
バウさんの発想って、何か行動を移すとき『では、ここにいる3人で出来る範囲のことをしましょう』ではないですよね。神戸元気村をされていたときにも、瞬く間に大勢の人を巻き込んで大きなプロジェクトにして行かれました。自分の発想と行動にリミットがないのは何故なんですか?

山田――
大きさを決めていないからだと思う。何でも誰でもウエルカムの形にしていたし。こういう性格な人はどうだとか、こういう生活をしてきた人はこうだ、ということもない。誰でもウエルカム。暴走族であろうとヤクザであろうと。神戸の震災の時には神戸のヤクザまで手伝ってくれたんだから・・・。

テンプル――
神戸の元気村は結局7年半されたわけですが『7年間やろう』とも決めてはいなかったんですよね。

山田――
ホントはそんなに長くやるつもりはなかった。最初の2週間で出たいと実は思っていた。『2週間で帰るからね』と言って埼玉の家をあとにした。でも神戸を出られない事情がだんだん重なってきて・・・。主には人がいなかったということだね。

テンプル――
元気村をまとめる人がいなかった、ということですね。

山田――
『まとめる』という言い方は少しおかしくて、『まとめる』とは似た単語だけど『コントロール』できる人がいなかった。『まとめる』というのは1つにするという意味だけど、そうではなかった。

テンプル――
『司令官』という感じですか?

山田――
『司令官』も結局は規則を作って「こうしろ、ああしろ」と1つにしようとするけど、僕の場合はやはりコントロールという言葉が適切だと思う。どんな人間が来てもウエルカムでちゃんと動いてもらう。そういうふうに、その場と人をコントロールできる人材が僕の他に誰もいなかった。

テンプル――
バウさんが『いち抜けた!』と言ったとたんに、神戸元気村は空中分解していたかもしれない。

山田――
実際何度かトライして、そうなりかけた。

テンプル――
最終的に元気村を畳まれたのはどういうきっかけだったんですか?

山田――
止めたいと思っていたのはもう2週間目からだからね。その7年半の間でもやりたいことはたくさんあった。瞬間、瞬間にね。で、やったうちの1つが『心の分灯(ぶんとう)』。広島の原爆の残り火を人々に渡して歩くことだったし、『108の祈り』と名前をつけたけど、日本の100名山+8つの聖山を登って祈ること。僕が抜けてもいいように、わざと神戸元気村の活動を離れてやってみた。他にもいろいろあった。

福井の重油流出事故のときに日本海に行ったのも神戸元気村2年目のことだった。

テンプル――
お話にでた『心の分灯』について、まずお聞きしたいのですが、そもそも広島の原爆の残り火を持って日本各地を歩こうと思われたのは何故なんですか? 火を広島に持っていくのが目的なら、受け取ってそのまま広島に直行することも出来ましたよね。

山田――
最初の『何故大きく物事を考えられるのか』という質問と『何故歩くのか』というのは同じ意味合いだと思うけど、自分の存在価値をどこに見つけるかというのが僕の人生のテーマ。自分だけにしかできないオリジナリティはどこにあるか、それをいつでも考えている。瞬間的に。何かが起こったときに、他の人だったらこうやっていくだろう。でも自分はこうやっていく。その1つの行動が『歩く』であったわけ。福井の重油流出のときの『ヒシャクで一杯』というのも僕のオリジナルな行動。

人には出来ない、自分にしかできないことをやっていくと、少しのアンテナでも立てていけると思うんだわ。そうやっていると『自分たちにしか出来ないことがあるんだ!』と、人が集まってくる。

テンプル――
原爆の残り火を日本全国に分灯しながら歩いたと伺ったとき、バウさんという人はなんてロマンチストなんだろうと思いましたよ。

山田――
この話をすると長くなる・・・。

たしか地震から4年目の1月17日の早朝、地震が起こった時間頃だったと思う。神戸に入ってすぐに自分でテントを立てた場所に座って『もう僕は神戸から出たい』という宣言をしたんだ。でも周りは『いやいや、あんたはもう少し神戸にいないとあかん』という雰囲気。でもやっぱり神戸から出ると自分で決めた。

この自分で決めるというのが重要なんだけど、決めたとたん、頭の中に『ヒロシマ』という単語が出てきた。自分ではポカンとしてしまったんだけど、広島に行けば何か仕事がありそうな感じがあったから、とりあえず事務所に帰って1本目の電話を待った。そしたら谷崎テトラから電話があった。

テトラは放送作家をしている人なんだけど「テトラ、僕に何か教えたらいいなという引っかかりがあるやろ」と聞いた。テトラは「先に用件だけ話させて下さい」と用件を言って「さっきの話、僕には何のことかさっぱり分からないんですが」というから「最近何か心にひっかかっていることあるやろ」と、またテトラに聞いた。そしたら「それなら最近、長野県の松本で広島の原爆の残り火を見ました」と。それからは話がトントンと進んで、松本まで行って火をもらう日が決まり、メディアに集まってもらうようにした。

でもそのときには、その火をどうしたらいいかまだ分かっていなかった。記者会見で『今年は20世紀最後の年(2000年)だから、年末にはこの火を使っていろんなことをやってほしい』ということをメッセージにして、それで歩き始めた。

地理に詳しいとよく分かるんだけど、松本から甲府に出るのに塩尻の峠に出る。道路をずっと歩いていって峠を越えて諏訪大社のあたりだったかな、ちょうどロウソクの火が消えそうになったから、神社の脇の風のないところに行った。火は長細い提灯にして持っていたんだけど、その提灯の奥のほうから『帰りたい』という声が聞こえてきた。

そのとき僕は思わず泣いてしまった。何で泣いたかというと、メディアも集め、お寺で法要もしてもらって、全国から50人ほど友人も集まった。それなのに出発して翌日に火がもう『帰りたい』と言っている。それはないだろうとガッカリきて、それなら諏訪湖の温泉でも行こうと思ってもうちょっと歩いていたら、その意味が分かってきた。

広島の住職さんでいつも何かと手伝って下さる方がいて、その方に電話をして「広島の原爆の残り火が松本にあった。でもその火は広島ではなく星野村から来たものだということを昨日聞いた。その火が『帰りたい』と言っている。火が帰りたいのは松本でも星野村でもなく、広島じゃないかと思うんだけど調べてもらえるかな」と話をした。そしたらやっぱり広島には原爆の残り火はなかった。北海道まで歩いていくってもう言ってしまった後だったから、しょうがなしに札幌の道庁まで歩き、その後山口あたりまで戻ってきた。時々は自転車も使ったけど、火を希望者に移しながら山口まで行った。

テンプル――
どれくらいの期間歩かれたんですか?

山田――
1年。

テンプル――
下世話な質問ですが、その間の食費とか宿代はどうされてたんですか?

山田――
全部自分のお金。別に寄付を集めていたわけではないから、全部自腹。

テンプル――
神戸元気村では、ほぼ無報酬でお仕事をされていたわけですよね?

山田――
元気村は、多いときには9名スタッフがいたけど、全員手取り18万円はもらっていた。歩いている間はもらってない。でもテント持って寝袋持って歩いていたから、家賃もないし、車の家のローンもないわけでしょ。時々スーパーに行って『今日は赤飯食べよう』とか、それくらい。宿には1度も泊まったことはない。

テンプル――
1年かけて黙々と原爆の火を持って全国を歩いていても、誰もほめてくれず、ありがとうと感謝もしてくれず、そんな中で『なんで僕は一人で歩いているんだろう?』とか『なんて馬鹿馬鹿しいことをしているんだろう』といった思いが頭をよぎることは1度もなかったんですか?

山田――
それは人が教えてくれた。その馬鹿馬鹿しさは。

僕はいまだに仙台の町が好きじゃないんだけど、それは何故かというと、NHKの仙台支社の報道部の人で、僕のやっていることを嗅ぎつけた人がいたんだ。彼は自分も関わりたいと何度も電話してきた。「そういうことは神戸の事務所を通してほしい」と返事をしていたんだけど、目茶目茶しつこい人で、結局彼が何をしたかというと、星野村の村長に電話をして『こういう人が原爆の火を持って歩いていますが、ご存じですか』というわけだ。

僕は北海道に向け一人で歩いていたから、星野村に連絡もしていなかったし、そういう発想もなかったんだけど、結局彼は、僕が自分の欲や自分の名前を売りたいがためにそういったことをしていると、その人自身の価値観の中で判断して、僕が立ち回る予定にしていたところに片っ端から電話をして、僕の行為を潰しにかかった。『あの人は偽物です。星野村は彼の行為を認めてないし、第一、原爆の火ではありません』と先回りして言いまわった。

道庁を廻って青森に降りた頃は自転車だったんだけど、自転車を押して歩いていたらその人が車でやってきた。目茶目茶怒っているんだ。『なんでボクがこんなことをやっているか分かりますか?』 彼の話を聞いたことで、ようやく理解できた。世の中の人にとって僕がやっていることは何の意味もないということが。

それからは自分の予定をHPに乗せたりしないで、黙々と広島にその火を戻すという、その思いだけで歩いた。

テンプル――
自分の名前を売りたい人や欲で動く人は、1年間も一人で歩いたりせず、もっと効率のよい行動をされると思うんですが・・・。考えてもいなかったことで人に攻撃されたり、悪く言われたとき、バウさんはどうされたんですか?

山田――
そのボリュームにもよるね。NHK仙台放送局の人の場合、名刺の大きさで動いていたわけだ。過去も素性も分からない変なおじさんが歩いている、それだけで攻撃してきた。そして東北の人は、みんなその人のいうことを信用してしまった。NHKの仙台放送局に行ってどやしつけることもできた。でもそこで自分の正しさを言ってみたところで火は広島に戻らない。僕はその火を広島に返して初めて自分が請け負った仕事が終わる気がしていた。

京都には大文字焼きなど大きな火祭りが3つあるんだけど、その年の大晦日、その3つの火祭りがその広島の火を使って行われた。8月6日以外で火祭りがあるのは歴史的なこと。その火は京都の市役所の入り口に今でもあるし、100年間灯り続けることになってる。

そういうふうに嬉しいこともたくさんある。だからNHK仙台放送局の人がやったようなことは、あまり考えないほうがいい。考えてしまうと、その人の頭の中に入っていかないといけない。違うサイズの頭に。でもそれはあまり意味のないこと。揶揄や中傷、偏見とかいろいろあったけど、『相手にしない』ということではなく、その人の頭の中に入っていくのを止めただけ。その後はただ黙って歩いた。

その火はどうなったかというと、2000年最後の満月の日に広島の人が集まって、原爆の日とは違う日にその火を使って灯籠流しをやってくれた。21世紀になってからは、毎年星野村に火をもらいにいって灯籠流しをやっている。

テンプル――
バウさんが広島に持って帰った火は広島では保管されていないんですか?

山田――
保管しているのは京都市役所だけ。それに保管してもらおうと思ってやったわけじゃないし、広島の人が星野村に行って火をもらうほうが貴重だと思ったから。前の秋葉市長に、平和公園の中に広島の原爆の火を置いてほしいと何度か頼んでみたけど、結局誰も相手にはしてくれなかった。それは仕方のないことだと思う。みな先例や常識のほうが大切だし、みなプライドがあるから、その中に僕は入っていけない。

テンプル――
次に福井の重油流出のときのエピソードを伺っていいですか?

山田――
この時のことは、ちょうど今、文章で書き残そうとしている。

長い話になるけど、最初事故に気づいたのはNHKのニュースを見ていた時だったと思う。正月早々のニュースで、山口か島根県沖でロシア船が荒波にもまれ、破船したという内容だった。詳細は忘れてしまったけど、ニュース報道で、おそらく北陸の三国の海岸にその船は漂着するであろうということが分かったので、そこに向かった。

到着してみると、ナホトカ号はまだ沖合3キロくらいのところにあり、ヘリコプターは上空を飛び交い、巡洋艦が2隻、その船を挟んでいた。見ていると、だんだん船が岸に近づいてきているのが雰囲気で分かった。何故分かったかというと、その時流れた『C重油』が大きな玉になって飛んでくるんだわ。風で吹き飛ばされて・・・。10分岸に立っているだけで身体中が重油で真っ黒になったほど強い波風だったから、船がだんだん岸に寄って来るのを感じた。岸近くの家々も油でだんだん真っ黒になってきていた。

僕は海辺の小さな公園みたいな、原っぱのような何もない場所に立って、ずっと3キロ先の海を見てた。すぐそばに、おばあちゃんみたいな人が一人立って、泣いているように見えた。その人に声をかけて「役場はどこですか?役場に挨拶に行ってくる」って聞いたら「役場なんて行かなくていいよ、あそこにいるのが町長さんだ」と、30メートル脇でずっと海を見ていた男性を紹介してくれた。

それで『こうこう、こういうわけで今駆けつけてきた。しばらくこの土地を貸してほしい。全部とは言わないから一部でいいからプレハブを建てて仮事務所のようなものを建てたい。早い人は明日には駆けつけてくると思う。そうなったらそういう人たちをコントロールしていかないと地元が大変になってくる』と伝えた。そしたら町長さんはすぐに土地の利用を了承してくれ、必要なことがあれば何でも遠慮無く言って下さいと約束してくれた。

その後すぐに日本財団に電話した。日本財団に黒沢君という人がいて、彼は確か神戸のときには元気村を一番支援してくれた人だと思うけど、町長に承諾をもらった後すぐに彼に電話して、プレハブを3つ建ててくれるよう頼んだ。3つのうち2つはくっつける。電話は6回線、あとコピー機やら何やら必要なものを1日で調達して明日には着くようにと頼んだ。もちろん彼はそれをやり遂げる人で、僕と似たところがある。お正月のニュースですぐに自分の出番が来るということが分かっていた。そしておそらく出てくるのは僕であろうということも予想していた。そういう体質の人間なんだ。これだけ大勢の人間がいるのに、彼だけなんだ。もちろん翌日には全て必要なものが立ち上がった。

町長に挨拶したとき、もう1つ別の流れで、地元の区長さんにライオンズクラブかロータリークラブか青年会議所か、今日、会合を持つ団体がないか探してほしいと頼んだ。そしたら今日、青年会議所が三国で一番大きなホテルで会合を持っているからとそこに連れて行ってくれた。

山の上のホテルに僕だけ真っ黒になって行って、ブルーシートを敷いてもらって入っていった。

そのとき、青年会議所が動きだそうとしていたのを町役場は断っていたらしい。もうちょっと待ってほしい、体制を整えないと何もできないし国ともやりとりをしているからと。そういうことが会合で決まっていた中、僕が出かけて行ってこう言った。「明日、事務所が出来ます」と。

「僕一人でもやろうと思えば出来る。50人ほどのスタッフだったら簡単に集まる。でもそうではなく、地元の人が自分たちでやって勉強をしてほしい。人の扱い方や動かし方、行政をどう動かしていくか・・・」 そういう話をしていったら乗ってくれて、次の日から事務所には地元の社長とか、社長の息子とかがガッチリ入ってくれた。白板と2トントラックが欲しいと言えば地元だからすぐに手配してくれ、そんなふうに全部が出来上がっていった。

ここからが文章に書きたいところなんだけど、これで1日目が終わったんだ。そこに防衛庁(省)の人間までが入ってきた。自衛隊と分からないようネクタイで自衛隊の配置状況なんかを調査しに来たいた。僕が動いているのを見て、事務所の手伝いから入ってきていた。途中から「内緒なんだけど、実は防衛庁の人間なんです。何でも手伝いますから」と言うので、それだったら事務所の内装全部を担当してほしいと・・・。そしたら机の大きいところに地図を貼り、その上にビニールをかぶせ、そこに今日は何人とか書き込めるようにしていった。彼らにしてみれば野戦の感じなんだろうね、そういうノウハウを教えてくれた。
そんなふうに全国からリーダー格の人間が集まってくれて「ワ~、出来上がった~!」「これは三国方式と呼ぶぞ~!」みたいなことを叫んだりしていた。

その日の最後のミーティングで、きちんと代表とか会計とか決めていこうということになって、その最初の挨拶はバウさんからって言うから「どうもありがとうございました。これで代表はおります」と1日目で代表を退いた。

テンプル――
あの時は、全国から集まった人たちと人の力で海に浮かんだ重油を掻き出したことが大きな話題になりましたよね。あれはそもそもバウさんがヒシャクで海の重油をバケツに入れ始めたのが発端になって始まったと聞いています。『ヒシャクで一杯』をバウさんがやったのは、いつのことなんですか?

山田――
それはプレハブが建つ前日。もう始まってんねん。

テンプル――
三国にはどれくらいの期間いらしていたんですか?

山田――
5ヶ月間。でも組織の中の会議はそのときだけ。会議する必要も感じないし、つまらない会議は僕には向かない。その5ヶ月間は、近くの越前水族館の赤ちゃんイルカを神戸の水族館に連れて行ったり、まぁいろんなことをしてた。

テンプル――
立ち上げたボランティア組織の中にはいらっしゃらなかったんですか。

山田――
そういうのは、それが好きな人がやればいい。みんなと一緒だと安心するという人がやればいいこと。人には向き不向きがある。僕は人と一緒だから安心というタイプとは違う。絶対僕にしか分からない仕事がある、ということが分かっていた。最初の1日だけは代表をやったけど、すぐに地元の青年会議所の代表に代表権を移した。

テンプル――
Youtubeに当時バウさんが三国で活動されている様子がアップされています。あれはいつのことなんですか?
船首漂着

山田――
たぶん2日目。何故2日目かと言えるかというと、ヘリコプターに乗った日だから。日本財団がいつでも乗れるヘリコプターを用意してくれていた。民間でそんなん無いよ~。その情報をもとに各部署を動かしていったわけ。それは僕が代表で、ということではなく全くフリーの立場で。キャスターの筑紫哲也さんが「山田さんは、行政は後から着いてくると言っています」とコメントしていた部分があったけど、あのニュース映像の中で説明していたのは、三国ではなく、京都の青年会議所の人。別の部署を新しく作っている最中の話で、ひな形を作ったら、あとはどんどん出来る人にやってもらったらいいだけのこと。

テンプル――
神戸の元気村にバウさんが7年半も関わっていたというのは、希有なことだったんですね。

山田――
辞めたい、辞めたいと思っていたけどね。

テンプル――
バウさんがされてきた中で、百名山に登られたというエピソードは個人的に好きです。百名山に登られた経緯など、話していただいていいですか? フロンガス撤廃の活動していく中で、地球のオゾン層を人間が破壊したことを地球に詫びたいと、日本の百名山の高さを足すとちょうどオゾン層のあたりに達することもあり『山に登っては地球に詫び、降りる』を繰り返したと伺っています。
*日本百名山

山田――
百名山を足しても32キロに足りなかったので、自分が知っている聖山を8つ加えて『108の祈り』というので始めた。それは神戸元気村をやっている頃のこと。本を書いたらお金がもらえた。びっくりした、本を書いたらお金がもらえるなんて思ってもなかったから。たぶん400万円くらいあったと思う。家に100万、元気村に100万、残りは好きに使うぞって宣言していたら、神戸のおばあちゃん連中が「若いうちに山に登りなさい!」と言い出した。

それまで僕はあまり山に興味がなかったんだけど、雪の少ない山から順番に百名山に登ろうと調べた。百名山を登りながら、人類の代表として地球に謝ろう、オゾン層にお詫びしようと。その年の2月から始めて9月20日頃までやったんだけど、結局八十八山で終わってしまった。

この間久しぶりに元スタッフのA君に会って思いっきり怒ったんだけど、その頃台湾で地震があった。ちょうど88番目の山が終わって、残りの主軸は北アルプスだった。日本海岸の親不知子不知(おやしらずこしらず)の標高0から登って上の縦走(じゅうそう)で稼いでいこうと思っていた。全部準備も出来て富山に移ろうと思った時、A君から電話があって「バウさん、台湾で地震がありました。僕、台湾に行きたいです」と。「事務所どうするの?」って聞いたら「バウさん、そんなの趣味でやっている時と違います。止めて下さい」と。僕がやっていることの意味をはき違えていたんだと思う。表向きには山が好きでたまらないからやっているということになっていたから。いろいろ説得したけど「じゃぁ、今日で元気村を辞めます」と台湾に行ってしまった。しょうがないから僕は登るのを止めた。それで八十八山で終わってしまった。

テンプル――
途中で終わってしまったにしても、ほんの数ヶ月の間に88もの山を頂上まで登るというのは、並大抵の体力ではできないと思うのですが、どんな感じで山に登られていたんですか?

山田――
登山口まで行ってそこで食料品だけ仕入れて寝て、目が覚めたら山に登る。その繰り返し。当時と同じ体力が今あるとして、また同じことをやりたいかというと、絶対にやりたくない。やる意味はもう終わった。当時、地球のことやオゾン層のことを考え続け、地球に謝りたい、そんな思いでいたのは僕だけだったと感じています。それだけでいいかなと。

テンプル――
オゾン層のことが出てきましたので、話が前後してしまいますが、神戸元気村の前、フロンガス撤廃を訴えて日本全国を行脚されるようになった経緯についても話していただけますか?

山田――
フロンガスに問題があるというのを日本の知識階級の中ではじめて言い出したのは、高崎経済大学の石井史教授だった。まだカヌーを仕事にしていた時で、一緒にその石井教授と川を下っていた時、夜、焚き火の中で、そのフロンガスの問題について喋られた。「これはバウさんしか出来ないです!」と一番弱いところを突かれた。

その頃は、これで人生終わっていいなぁと思うくらいノンビリ生きてた。カヌーの場合、何をやっても相手が喜んでくれる。関東で、最初カヌーをやり始めたのは、知識階級に属する人たちだった。大学の先生とか経営者とか・・・。そんなメンバーがそろっているのに、こんな学歴もない僕が「左向いて~」というと素直に左を向く。ほんと、面白かった。価値観が変わるからだろうね、みんな喜んでくれた。そんな中で、石井先生の話を聞いた。

翌日には「もうカヌー辞めるから」と家にも子供にも伝えた。

テンプル――
一瞬で決められたんですね。

山田――
その夜に決めた。焚き火の中で。バーボンも飲んでたんだけど「先生、もうバーボンも止める」と言って・・・。それからだね。

その頃はまだ環境という言葉を使っていなかった、公害と言っていた。公害という言葉ではなく環境という言葉を使ってもらおう、そういう提案もしていった。何故日本が環境問題で世界レベルに入っていけないか、大学の先生や行政でも予算組ができるような立場の人といろいろ話しをした。結局、単独では動けない、動かないことが分かった。他の人が動いているから自分も動くというタイプの人ばっかり。

それで三角形のトライアングルの図式を思いついた。行政を動かすには、行政が一番弱い議員を動かす。議員さんが動けば行政に予算ができる。その議員さんが一番怖がるのが市民活動家。この三角形をうまく展開させるとシステムがポーンと1日で生まれてしまうんだわ。一番うまく行ったのが兵庫県の尼崎市や徳島の池田町というところ。そこは行って1日で三者を面談し、順番に話をしていっただけで、もう自分たちの力だけで動き始めた。そのやり方を全国に使っていこうというので、北海道から沖縄までまわった。

テンプル――
お一人でバンに乗りながらまわられたんですよね。

山田――
カヌーだけは車に乗せて・・・。結局カヌーに乗る余裕はあまり無かったけど・・・。

テンプル――
また資金のことを聞いてしまいますが、その時の活動費はどうされたんですか? 3年くらいかけて日本をまわられたと聞きましたが。

山田――
カヌーで貯めたお金を使った。でもとうとうお金も無くなった。これでもう終わりだろうなと思って家に帰ったら、小学校5年くらいだった息子が「とうちゃん、家を売れ。地球と家とどっちが大事なんだ」と怒り出した。しょうがないから家を売るか~ってことになった。女房は反対したけど、所沢あたりにあった家は二千何百万で売れたかな。それでローンを完済して、残った半分を家に渡して、半分を車の中に入れて、それで堂々と日本中を動き出した。

テンプル――
いまでも環境問題で活躍している**さんという人がいるけど、彼は話しをするだけで何の行動もしてない。僕が彼に提供したデータで彼は講演活動をしていたけど、7年後に聞いたら、やっぱり同じデータを使って話しをしていた。毎日講演しているっていうのを彼は自慢していたけど・・・。それに彼は神戸の地震があったとき、結局神戸には入ってこなかった。僕も当時、彼と同じくらいの講演活動をしていたんだけど、全部キャンセルしたし、みんな分かってくれた。でも彼は「僕は講演がありますから」と・・・。それが彼の役割といえば役割と言えるかもしれないけど、結局何のシステムも彼は作れなかった。自分しかできない行動を思いついて欲しかった。

僕は、ピアニストやバイオリニストなど音楽をやっている友人が割と多い。そいつらにいつも言っているのが『人の作った曲を何百回やるんだ?』ということ。それと神戸元気村の時代は一緒の意味合い。僕はオリジナリティだけをやっていった。自分で作った楽曲だけを。それも一曲づつ丁寧に。

誰かが歌った歌に想い出があって、それを何百回も歌ってきた、誰かが作った歌を大事に歌ってきた。僕はそういう人間でも、そういう頭の持ち主ではないんです。自分が大事にしている曲と同じように、何かオリジナルな曲を一曲でも作ったことありますか? それを人生でやりなさい、ということ。僕は神戸元気村での7年半では、そういうことをずっとやってきた。『オリジナル』というのは大変重要な要素。

誰かが作った会社でやっていくのも楽しいでしょう。新橋あたりで飲むのも楽しいでしょう。でも僕は神戸の7年半で、小さいけどオリジナルの会社を作った、新しいシステムを考えたり作った。そんな感じです。

テンプル――
バウさんがご自身の人生を振り返ってみて、自分の人生の絶頂期はあそこだったな、と感じる時期はありますか?

山田――
僕の人生の絶頂期は死の直前だと思う。まだ体験したと言えない。それほど欲張りなんだろうね。これだけ体の免疫力も落ちてきているし、以前のようにはいかない。でも、死の直前、ロケットを噴射するようにバーンと行きそうやなぁというのがあるね。

なおちゃん、聞いているかどうか知らないけど、今「自分史、自叙伝を作ろう」というのを始めていて、昨日もタケちゃんとキヨという30代の若い人と会っていた。これまでやってきたことを30代の若いヤツに譲っていくというのをずっとやってるんだけど、この二人が南相馬の曹洞宗の住職に会いにいってくれてます。その住職が檀家さんの自分史を書き出そうと言ってくれて福島からスタートしています。

テンプル――
「自分史、自叙伝」が新しいプロジェクトになるんですか?

山田――
もうスタートしています。お墓という文化を変えたいと思っているんです。

テンプル――
お墓という文化を変えたいとは?

山田――
例えば、なおちゃん(インタビュアー:光田菜央子)は広島生まれだけど、広島の友達に自分の先祖代々のお墓に連れていかれて「これは何さんのお墓です」と言われても、その人がどう生き、何を考え、何をやってきたか全く分からないし見つからない。お墓は残っていても、その人の孫やひ孫も全く分からない。だからお墓と同じ重要性で生きている間に自分史を書いてもらおうと。その運動を始めてる。それは宗教家でさえ変えていくであろうと思っているし。

南相馬で100人が自分史を書いてくれたら、その時代が読めてくる、村のことも読めてくる。東電には反対だったけど息子が就職して・・・とか、そういうことも書いてもらう。福島から始めて全国津々浦々、書いてくれる人を探していく。それが僕のライフワークだと思っている。なおちゃんも書いてね。

テンプル――
私の50年の人生なんて、そんなに面白くないから、これから面白くします!

山田――
死ぬまでに書いてな。

テンプル――
バウさんも今自叙伝を書かれているそうですが、その中に、人生のターニングポイントはありましたか?

山田――
この前見つかった。回りくどい話になるけど、本を書くにあたって、僕自身の記憶をどこまで遡れるかというのをずっとやっていった。そしたら3歳まで戻れた。その3歳のときのエピソードにタイトルをつけた。『富士山の布団』って。

何かというと、3歳のとき、親父が寝ている布団をみたら富士山みたいになってた。僕は足元からその山を登って上まで行って「あ~!」って言いながら親父のお腹のところに滑り落ちるのが好きだった。好きだったと思ってた。
その遊びを、なんで何度も繰り返したのかこの前考えとき、ようやく分かった。親父が笑ってた。親父を笑わせるために、自分はしんどいんだけど登ってゴロンゴロンと降りてた。その親父の笑顔を見たときが人生のターニングポイントだね。人を喜ばせよう、喜んでもらってその笑顔が自分の目の前に出てくる。それが好きだと思った瞬間。別に親父はそれでほめてくれたわけじゃないよ、ただニコニコ笑ってただけ。

なんで親父が富士山を作っていたか。親父は生まれたときから足が曲がっていた。それを僕は全然知らなかった、というより気がつかなかった。歩くときも足を引きずっていたのに曲がっていたことを意識していなかった。だから差別もなかった。自分の記憶をずっとたどっていった先に親父の笑顔があった。それもまっすぐにできない親父の足を使って。
その時がターニングポイントだね。

神戸のときも同じなんだわ。喜んでくれたからやっていただけで、有名になりたいからやっていたわけでもないし。

テンプル――
短い質問をいくつかしていきますね。
プロジェクトを成功させるために大切にされていることはありますか?

山田――
オリジナリティ。これにつきる。言いかえれば、他の人がやっていることはその人たちがやればいい。例えば、トールが東北に瓦礫の片付けに行ったと聞いても、僕が手伝いに行くということはない。トールもそれが分かっている。僕の関係はみんなそういうことを分かり合えている。世の中、それが分かっていない人がほとんど。それは大切なことなんだよ。

テンプル――
後身を育てるうえで大切にされていること

山田――
手を早く引くということ。

テンプル――
人とのコミュニケーションで大切にされていること

山田――
言葉が過激だけど、自分の持っている力を見せつけないようにすること。相手を圧倒させないようにすること。僕は人ができないこと、やらないことばかりやってきているから。

テンプル――
私だったら、バウさんにお願いしたらなんとかしてくれるだろうと思ってしまうかもしれませんね。

山田――
そう思ってもらえれば楽なんだけど「あいつは偏屈だから」とか「変わっているから」とそこで止まってしまう人が多い。だからその部分は無口でいるようにしている。そういう人は自分の心と比べるんだろうね。同じ力量だかとか、あっちが下だ、あっちが上だと、そのあたりを考える人が多いと思う。そういう力比べに行かせないようにするのが僕にとっては大切なことなんだわ。だから人より馬鹿になって暮らすって感じかな。

テンプル――
バウさんは普通の人が生涯で出会う人の数より遙かに多い人と出会って、その人たちと共同で何かをされてきましたよね。人と関わればそれだけ人間関係に悩むことも出てきます。上手に人づきあいをする秘訣ってありますか?

山田――
そういう悩みから早く出てくることですよ。僕はさっきも同じことを言ったけど「人の心の中に入っていかない」ということ。なおちゃんはきっと、人の心の中にどうやって入っていけばいいのかを聞きたいんだと思うけど、僕の場合は人の心には入っていかない。何故かというと、僕にとっては窮屈な人が多すぎる。でもこれはなおちゃんには表現できないことだと思う。人の心に入らない生き方、なおちゃんにはできるか? 面倒くさい人、嫌いな人には会わないとか、出来る?

テンプル――
私も好きな人とだけつきあって生きている一人かもしれませんね。友達は一人いれば十分幸せだって言っていますしね。

山田――
そうか。そう言えない人が世の中、圧倒的。そういう人がなおちゃんのファンになるのかもしれないね。でも大事なこと。そういう悩みから早く抜け出すことだね。その代わり、気の合う人とどんどんやっていけばいい。会社でもどこでも気の合わない人を会議に入れる必要は全くない。気のあった人たちとの立ち話でどんどん決定して進めていけばいい。それが一番やりやすい方法。

テンプル――
バウさんは、いつも直感に従って動いている印象がありますが。

山田――
北海道のカヌーツアーのとき、なおちゃんたちに話をしたと思うけど『タナの話』を覚えているかな? タナが死ぬところを目撃したの、僕だけだと思う。

テンプル――
ちょっと待って下さい。タナって確かバウさんを導いている天使みたいな存在でしたよね。

山田――
タナは東京に住んでた。新大久保に石井という大きなスポーツ専門店があるんだわ。カヌーの注文があってそのショップに配送したとき、お客で来ていたタナと知り合った。確か僕より3~4歳年下だったと思う。山のことを色々教えてくれたのもタナだった。彼は一緒に行った山の事故で亡くなってしまったんだけど、そのタナが教えてくれる。『ヒロシマ』とか単語で・・・。そういうふうに思い込んでいる。

テンプル――
タナさんが導き手になっているという感じですか?

山田――
疑いも何もしない。タナの声が聞こえてくるわけでも、文字でもない。でも分かる。ヒロシマのときには漢字でも平仮名でも、あるいは誰かに「広島」と言われた感覚でもなく、カタカナの感じだった。気がつくか気がつかないかの感じで分かる・・・。

テンプル――
直感というより、何かが伝わってくる感覚でしょうか。

山田――
それを一方的に掴んでいる感じかな。

テンプル――
タナさんが亡くなる前にはそんな感覚はなかったんですか。だとすると、直感とは少し違うようですね。

山田――
そうだね。

テンプル――
いま自叙伝を皆さんに書いていただくプロジェクトを始めていらっしゃるそうですが、それ以外に、やろうとしていることはありますか?

山田――
南相馬でやろうとしているのは『3月10日』。福島の人たちに3.11の前までの生活を書いていただこうと思っています。その物語のいくつかは映画化まで持っていこうと思っている。タケちゃんには『3月10日制作室長』という名前を渡している。あとはいい脚本家とプロデューサーがいれば、いい画像が出来上がってくると思う。原発反対!という感じではなく、静かな家庭を描きながら、最後の晩ご飯をこういうふうに食べたとか、そういう物語を・・・。100人書いたら、福島の歴史ができると思う。今だったら政治家やマスコミの歴史観だけが残ってしまう。市民の歴史は残していかないと消えていってしまう。

あと自分の自伝も書こうとしている。これまでやってきたことを書き残しておこうと。タナのことは小説みたいにしたいと思っている。

テンプル――
いまの日本を見て愁いていることなどありますか?

山田――
一番身近なところでいうと、早くテレビは止めたほうがいい。習慣でスイッチを入れてしまうのを。ラジオのほうがまだマシ。

あと自衛隊に福島の廃炉の仕事をやらせたい。東電の下請けの下請けの孫請けの・・・といった民間のお金と言いながら政府のお金を使って行う廃炉のあやふやさ。僕は自衛隊は不要と思っている人間だけど、自衛隊の人に1ヶ月交代くらいでやってもらうとか、いまは国家の存続の危機だから自衛隊が動かないとだめだと思っている。

テンプル――
バウさん、これまでの過労が積み重なって、今現在は透析が必要な体調になられています。身体のことをお聞きするのは申し訳ないですが、いつの活動のときに体調を悪くされたんですか?

山田――
阪神大震災のときに、何かおかしいなと思い始めていた。六甲に大きな病院があって、そこの看護婦さんがよく炊き出しの朝ご飯を食べに来ていた。「一度先生に見てほしいと言っておいてくれる?」とその看護婦さんに頼んでいたら、バス型の移動診察所みたいなのを元気村の横につけてくれて、住民の人と一緒に健康診断をしてくれた。そのとき糖尿だということが分かった。ストレスが原因だと。眠れないとか次のことを考えないといけないとか、いろいろあったし。簡単にいうと、常に何千人という人をコントロールしていくわけだから。

テンプル――
9.11のときには、やはり軽トラに一人で乗って、夜はハンドルを枕にして寝ながら、全国を9.11の映画を持って自主上映に廻られていましたよね。あのときは、すでに体調を悪くされていたんですか?

山田――
そう。たくさん人間がいるのに誰もやらないから。軽トラだから横になれるハズもない。神戸元気村のときには、その六甲のクリニックの院長先生が、昼間の仕事はここでしていいから、夜は自分のクリニックに来てゆっくり寝て下さいと言って下さった。でもそんな時間もなかった。

テンプル――
一度、ガンも見つかったそうですが、それは自然治癒されたんですよね。

山田――
治癒という意味ではしてない。でも進行もしていない。いつ死んでもいいと思っているし。でももう少し自分史のことをやっておきたいから透析を受けている。

テンプル――
まだまだバウさんには教えていただきたいこと、喝を入れていただきたいことがたくさんあります。もう少しだけ私たちのために頑張って生きて下さいね。


今日は貴重なお話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました。2012年
インタビュー、構成:光田菜央子

Open Japan
神戸元気村で山田バウさんとともに活動していた人達が立ち上げた団体。
現在は主に石巻を拠点に東北の復興支援を行っている。

山田バウさんが書かれていたブログ
山田バウさんの著書 (絶版)

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