第16回「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。 山本 忍 氏
山本 忍 氏
1958年千葉県生まれ。1986年東京医大卒業。1995年「医療と福祉を結ぶ」をテーマに、横浜市に建設された福祉マンションの一角に神之木クリニックを開業(2022年現在休業中)。いのちをひとつの全体性としてとらえるホリスティック医学の実践に取り組んでいる。日本ホリスティック医学協会理事。日本アントロポゾフィー医学のための医師会幹事。アントロポゾフィー認定医。また、福島県玉川村に拠点を置く「NPO法人マグノリアの灯」理事長として、2014年末にオープンした児童養護施設「森の風学園」の設立にも尽力。
テンプル――
今日は、ホリスティックな診療を行われることで有名な医師で、私の中ではダントツの不思議系ドクター、山本忍先生にお話を伺わせていただきます。
まずは、山本先生が医師になられたいきさつからお話を聞かせてくださいますか? 子どもの頃からの憧れの職業だったとか?
山本――
いえ、別に小さい頃から医者になることを夢見ていたとか、使命感を持っていたとかいうわけでは全くないんですよ。両親の強い勧めに従ってこの道に進むことになった、という感じでしたね。高3の時に複数の医学部を受験するんですが、これがことごとく失敗に終わりまして。結局その後4年間も浪人生活を送ることになってしまいました。親にはずいぶん長いこと人生の猶予期間を与えてもらいましたから、さすがにここまできたら医者になるしかないだろうと。
テンプル――
ご両親も相当気が長いというか、よほど山本先生にお医者さんになってほしかったんですね。
山本――
もともと私というよりも父が医者になることに強い憧れを抱いていた人だったんですよ。父は農家の5人兄弟の4番目に生まれて、裕福とはいえない環境に育ちました。私立は無理でも国立の医大なら学費が何とかなるのではないかという希望を見出し、日夜勉強に励んで国立の医学部を受験することにしたのです。ただしそれは「もし国立に受からなかったら、遠い親戚筋が経営していた商店の後継ぎに行く」という親の条件つきの受験でした。
結局のところその受験は不合格に終わり、18歳の父は、泣く泣く商売の道に行くことになったんです。皮肉なことに、同時に受けていた私立の医学部には合格通知をもらっていたんですよ。
テンプル――
お父様はどんなに無念だったことでしょうね。
山本 ――
本当にそう思います。父は「この先、家族がお金の苦労をしなくてすむように」と必死になって働きました。その甲斐あって生活に少しゆとりができるようになると、息子のうち一人は商売の後継ぎに、もう一人は医者にしようという夢を思い描くようになったんですね。
テンプル ――
つまり、お父様は山本先生に青年時代のご自分の夢を託されたんですね。
山本 ――
はい。ですが、当時の私はといえばそんな父の真摯な想いとは裏腹に、学業よりも毎日せっせと遊びに精を出すバラ色の青春を謳歌する浪人生だったんです(笑)。
でも、そんな私も20歳になった頃に「私は医者として生きていくしかないんだ!」とはっきりと自覚するようになります。人には色々な才能があると思いますが、私の場合、人と関わるという能力を医者の道に活かす、というのが役割なのではないかと。
それからというもの私は今までのバラ色生活を返上し、一心不乱に勉強に励むようになりました。するとやはり努力は実を結ぶもので、ずっと低空飛行ぎみだった私の成績がどんどん上がり始めたんです。その結果、それまで受験に20連敗くらいしていたのにも関わらず、最後の年の受験では受けた大学全てに合格することができました。
テンプル ――
もとは強い動機もなく、ご両親の勧めに従って医学の道に進むべく歩き始め、浪人生活という長いモラトリアムの期間にご自身と徹底的に向き合われた結果、本来目指すべき「道」に気付かれたということでしょうか。
山本 ――
ええ、そうですね。それに当時、池見 酉次郎*(いけみ ゆうじろう)先生や桂 戴作*(かつら たいさく)先生という、私が憧れるドクターがいたことも、心身医学を目指す大きなモチベーションになりました。彼らは“病気を身体面のみならず心理・社会・環境面も含めて全人的にみていく”という「日本心身医学会」の礎を築きあげた心身医学のパイオニア的存在だったんです。
テンプル――
公式HPによると、「日本心身医学会」の前身が生まれたのは1959年で、本会が設立されたのが1975年となっています。今でこそヒーリングという概念はだいぶ一般に浸透してきましたけれど、そんな時代に眉唾ものとして扱うのではなく、治療の一つの可能性として真摯に受け入れるような頭の柔らかいお医者さんがいらしたとは驚きです。
山本――
ええ。西洋医学がどんどん発展していく一方で、古代のシャーマンのような治療もまだ根強く行われていたような時代だったと思います。まあもともと医学というのは、祭祀や儀式から発生したものでもありますし、むしろ昔のほうがヒーリングは当たり前に実践されていたのではないでしょうか。
テンプル――
なるほど、そうかもしれませんね。学生の頃からそんな一風変わったお考えをお持ちの山本先生でしたが(笑)、卒業後は思い切り西洋医学の世界に身を置かれていたんでしょう?
山本――
20歳の頃の体験から心と体は別物ではなく『心身一如』を追求しようと考え続けてきた私には常に抵抗がありましたね。医学・医療は、物質的な次元での発展を目指すのはもちろん大事だけれど、同時に心の部分を含めてトータルに考えることは絶対に必要だろうと。
そうした思いが具体化するきっかけとなったのは、大学の同級生降矢 英成*(ふるや えいせい)先生という相方との出会いでした。心と体だけでなく、医科と歯科、東洋と西洋を繋ぎ、世界の伝統的医療の優れたところも学び統合していくトータルな医学、“ホリスティック医学”を目指そうと、彼と意気投合して一緒に「ホリスティック医学研究会*」を医学部の卒業直前に立ち上げて活動を始めました。
テンプル ――
大学病院に9年間勤められた後はどうなさったんですか?
山本――
はい、このクリニック(神之木クリニック)を天から授かりまして。
テンプル――
天から授かったとはどういうことですか?
山本――
日本ホリスティック医学協会立ち上げの頃、『ホリスティック医学入門』という本の共同執筆を始めたのですが(刊行1989年)、私が担当したのは、「ホリスティック・スペース・プロジェクト」という部分でした。その構想内容は、「都会の真ん中でホリスティックな医療の情報発信する場を、都会から少し離れた郊外に学びの場を、そして自然溢れる山奥に癒しの場をつくる」というものでした。でも当時はその構想をすぐに具現化していくような経済的基盤もなく、いつか実現したいという半ば夢物語のように時は過ぎて行きました。それが8年後の1995年にいっぺんに実現したんです。
新潟県に三川村(現在の阿賀町)という白鳥の飛来する自然豊かな村があるのですが、当時無医村になっていたんです。そこに、地元の篤志家が、主にリウマチやアトピーを対象にした特徴的な医療施設を建設されて、そこの副院長に招かれたんですよ。これで「山奥に施設を作りたい」という自分たちの夢が一つ叶う瞬間がやってきたなと。そして、その半年後に今度はこの横浜にある神之木クリニックを授かりました。
テンプル ――
お~! まさに以前本に書かれたという、「都会から少し離れた郊外」にある「ホリスティックなスペース」ですね。
山本――
中心になったのは、鍼灸師の石川家明先生と、建築家の尾竹一男さんの2人で「福祉マンション研究会」のもとに有志の方々が多く集まりました。マンションは8階建てで、その4階にクリニックと鍼灸院を併設しようということになって、クリニックに常駐してくださる医師も同時に探していました。
でも、結局なぜか誰も手を上げないまま時は過ぎていき、これはもう私がやるしかないなと覚悟を決めるような流れになっていったんです。またその時期に起きた、運命を感じるようないくつかのドラマも、私が神之木クリニックを開業することに対して背中を押してくれたような気がします。
テンプル――
どんなドラマがあったんでしょうか。
山本――
まず一つ目からお話します。私が大学病院をやめて開業すると決めたのが1995年のことでしたが、その年は阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起き、またちょうど戦後50周年を迎えるという、日本にとって大きな節目にあたるような年でした。そんななか、私はある社会教育団体の研修会に参加して、「どうしたら戦争をやめられるのか」というテーマについて参加者の方々と皆で真剣に討論を交わしたことがありました。そこでの私自身の気付きは、「身近な争いやわずかな言葉の行き違いが引き金となり、それが拡大して戦争へと発展してしまうのではないか。もしそうであるなら、まずは身近な争いをなくしていくことが先決だろう」ということ。するとそんな気付きがあった矢先に、まさに私にとって格好の喧嘩相手が目の前に現れたのです。
テンプル――
山本先生が喧嘩を?
山本――
当時、本格的に始動したばかりの「日本ホリスティック医学協会」の事務局長をやっていた時のことでした。同じ医療業界に籍を置くある方、仮にAさんとしておきますが、突然彼から「お前みたいに無能な人間が事務局長なんかやっていたら協会がつぶれてしまう。すぐに辞めろ」という脅迫的な文章が、夜中の3時にFAXで送られてくるようになったんです。毎晩毎晩、延々と続く嫌がらせに、だんだん生きた心地がしなくなりまして。恐怖と疲れで精神的にも参っていたのでしょう。私はAさんを激しく憎むようになり、「殺したい」とさえ思うようになっていったんですね。
テンプル――
山本先生は差出人が誰なのか分かっていらしたんですね。
山本――
はい、分かっていました。ですから今まで送られてきた証拠の文書とともに、Aさんを警察に突き出すのは簡単なことでした。でも、今までの経緯を思い返しながら自分の心の内を観察してみたところ、様々な気付きが湧き上がってきたのです。
人間というのは、恨み辛みを抱えた結果、相手を殺したいという気持ちにまで思い至ることがあるものなんだ。今回の出来事は私にとって、そういう人間の醜い感情をリアルに味わうという、一つの貴重な経験だったのではないか。だとしたら、この殺したいという気持ちを感謝に変えてみたらどうだろう?……という具合にです。そんな気付きを得た私は、すぐさま心を込めてその『Aさんの美点50箇条』を書き連ね、彼にFAXしてみたんです。
テンプル――
それはすごい! Aさんは想定外の事態にさぞかし驚かれたことでしょうね。
山本――
ええ、そうでしょうね。そして私にも驚くようなことが起こったんです。というのはその翌日に、今度は何とAさんから『山本忍氏の美点50箇条』という文書が送られてきたんですよ。そして、その日を境にFAX攻撃がぴたりと治まったんです。
テンプル――
すご~い! 売られた喧嘩に対して愛を返された山本先生の勝利ですね(拍手)。まあ勝ち負けの話ではないですけれど(笑)。
山本――
そうですね(笑)。それでさらに不思議だったのが、ちょうどその数日後に神之木クリニックの院長にならないかというオファーをいただいたことでした。問題が解決した直後のタイミングだったこともあり、まさに思いがけないご褒美をもらったような気がしましたね。そう考えると今回の一連の出来事は、神之木クリニックに行く前に「自分の中にある不要なものを綺麗に浄化することができるかどうか?」という、天からのお試しだったのではないかと。自分の中で全てが腑に落ちたんです。
テンプル――
なるほど。もし全てが天から与えられたお試しのドラマだったとすれば、そのAさんは山本先生にとっての菩薩様だったともいえますね。
山本――
悪役を買って出てくれた、いわば私の分身でもあったのかもしれません。FAX事件が終わってからほどなくして、2人で腹を割って話す機会を得たんです。その時に、Aさんが私に嫌がらせを始めるようになった理由を聞いてみたんですね。するとAさんは、私が何気なく発した言葉に引っかかったことがきっかけだったと。つまり、もとはといえば私の方に原因があったんです。私はそんな簡単なことにも気付かずに、人を殺したいとさえ思ってしまったということに我ながら心底驚きました。
テンプル――
先にお話しいただいた研修会の「いかにして戦争をなくしていくか」というテーマについて、身をもって理解されたということですね。愛をもって解決を図られた山本先生は、世界の平和に少し貢献されたのかもしれません。
山本――
そんなドラマが実はもう1つありまして。
それは同じ年の8月26日のことでした。戦後50周年を記念する式典が富士山麓で開催されたのですが、沖縄で採火された聖火が全国リレーされて最終ゴールの富士山に届いた日でした。私はそのイベントに救護班の一員として参加していたんですね。聖火が到着し、その聖火を灯すというリハーサルが始まってすぐに私に突然一本の電話が入ったんです。その内容は「山本先生の家が燃えています」という衝撃的なものでした。
イベントの途中ですぐに帰宅すると、家は半焼でしたが住める状態ではありませんでした。後日、重い気持ちで事件の経緯を病床にいる父に報告しに行きました。すると父は意外にも「富士山に聖火が灯った瞬間と、火事になった時刻にどれくらいの時間差があったのか?」と不思議なことを言い出したのです。
父はその時すでに全身に黄疸が出ており余命いくばくもないという状態でしたが、頭はしっかりしていたんですよ。二つの出来事について振り返ってみると、確かにどちらもほぼ同時刻に起きていた、ということに気が付きました。そこでそう伝えると、父は涙を流しながら「自宅の火事は聖火の有難いもらい火だから、お赤飯を炊いてお祝いしなさい」と言い、それから1週間後に亡くなりました。結局その言葉が遺言となったのです。
テンプル――
普通の感覚では言えないような遺言ですね。お父様は死を目前にして、何かを悟られていたんでしょうか?
山本――
そんな父の最期の言葉もあって、この時に家を燃やしてくれた火というのは「神之木クリニックに行く前に、自分の中にあるドロドロとしたものをちゃんと精算しておきなさい」という木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ=富士山を司る女神)の計らいによるものだったのかもしれないなと思ったのです。
テンプル――
一旦、ここまでの話をまとめますと、山本先生は、Aさんとの和解と、ご自宅の火事という2つのドラマを経た後に、必然的な流れから神之木クリニックの開業に至ります。そこで兼ねてからの夢だったホリスティック医療をいよいよ本格的に始めることになったわけですよね。
山本――
はい、そうです。あくまでも現代医学をベースにしながらですが、開業当初からしばらくの間は波動測定器を導入して診療に使ったり、ホメオパシーを処方したりしていましたね。
開業以来、波動測定とホメオパシーが診療に大きな位置を占めていましたが、2004年、40代半ばの頃に「アントロポゾフィー医学*」に出会いまして、それ以降はこれ一本に絞って診療していくという決断をしました。それまでは残りの人生をホメオパシーと波動測定に全て捧げてもいいかなとさえ思っていたんですけれどね。でも、この道で行こうと決めた瞬間に、耳元ではっきりと天使のGOサインともいえる声が聞こえたのは不思議でした。そして、天使というのは一瞬たりとも自分を見放さずに見守ってくれているんだなと感激しましたね。
テンプル――
それほどアントロポゾフィー医学というものが山本先生に大きなインパクトを与えたんですね。具体的にいうとどういう医学なんでしょうか?
山本――
一言で説明するのは難しいですが、“現代の西洋医学を基盤にして拡張していく医学”という言い方ができます。また“精神の内なる発展と魂の変容についての認識と理解を深めることで、ホリスティック(全人的)な取り組みへと導いていくもの”という表現もできると思います。
アントロポゾフィー医学では、人間の体が4つの構成要素(物質体、エーテル体、アストラル体、自我)で構成されているという捉え方、それぞれに地(鉱物界)、水(植物界)、風(動物界)、火(人間界)という自然界の4つの要素が対応しています。
さらに覚えておくと日常の様々な場面での理解に役立つのが「三分節」という考え方です。人間の体の構造や機能を、頭部(神経系/思考)、胸部(リズム系/感情)、腹部(四肢・代謝系/意志)という3つの分節に分けて考えるんです。身体の部分部分、さらには細胞や血液内のミクロの成分まで三分節の働きをもっていることがわかります。これは信じてくださいというより、それぞれの分野の専門家が専門的知識で確かめていける性質のものです。
それから、人間は十二星座と七惑星によって形づくられ、動きを与えられていること、その概念を用いて診断や治療に役立つこと等々です。赤ちゃんは十日十日の間にお母さんのお腹の中で目や耳がつくられますが、その芸術的・精妙なつくられ方の背景に惑星や星座の働きがあるということをきちんと認識していくことができます。
テンプル――
う~ん。アントロポゾフィー医学がホリスティックかつ理論的だというのは分かりましたが、理解するのが難しいですね(笑)。実際にはクリニックでどのように診療されているんですか?
山本――
ホリスティック医学、アントロポゾフィー医学と、私の中で進展してきている歴史があって診療の内容も変化してきています。でも元々このクリニックは、“医療と福祉を結ぶ”という理念で誕生した経緯がありますので、地元の人たちの風邪や高血圧や痛み等々を丁寧に診ることが中心です。
看護師さんたちが常にサポートの中心にいてくれますが、鍼灸師、カウンセラーの仲間たちと始めたチーム医療も、今ではオイリュトミー療法、芸術療法、音楽療法の療法士さんたちとの協働作業が多くなってきています。
でも変わらないのは、患者さんの求めに応じた治癒のお手伝いをするということです。どうしても3分間診療では治りきらない患者さんが自然に集まってきますし、心と体を一つのものとして捉えるという私の診療スタイルに共鳴して遠方から来られる方がいらっしゃいます。私にとって、現代医学的には難題といえるような病態を携えてきてくださる方々は、私の成長を応援してくれているように感じています。
開業したばかりの頃、「膝が痛いんです」と言ってクリニックに来られた患者さんに「膝の言い分を聴いてみましょう」と思わず口をついて出たことがあります。「臓器や組織、細胞、ウィルスからのメッセージを通訳してお伝えする」というのが、私の診療の特色といえるでしょうか。ただ、この通訳という作業は、あくまで私が臨床経験を積んで得たスタイルで、私の個性によるものです。
テンプル――
体からのメッセージを通訳する、とは面白いですね。私の友人も以前、動悸に悩んで山本先生のクリニックにお世話になったことがあります。その時に山本先生から、「あなたの心臓を助けるために小腸が頑張っていますので、小腸への感謝の気持ちが大切です。肝臓は怒りを感謝に、腎臓は恐怖を安心に変えるくれる器官ですが、小腸は恨み辛みを消化して慈愛の心に変える働きをしているんですよ」と言われたんだとか。
また他の患者さんで、先生が問診の際、カルテに家系図を書かれてご先祖の病気やその病気の意味を医学的に解説してくれて、後始末や朝夕の挨拶等、必要な実践ポイントを幾つかアドバイスされて、その通りに実践すると確かに血圧が下がったという話をどこかで聞いたそうで、それにも驚いていましたよ。日々、たくさんの患者さんを診ていらっしゃると、そういうまるで霊感とも思えるような能力も磨かれてくるんでしょうか。
山本――
う~ん、心身医学のパイオニアたちへの憧れから、見よう見まねで身につけたと言えるかもしれませんが、職人というのは本来そういうものだと思いますよ。例えば肺癌患者さんのオペを何百例とされてこられたある有名な教授は、二次元のレントゲン画像が三次元の立体になって見えるという話を聞きました。そこまで精通してくると、ガン細胞の状態が手に取るように分かるんだと言うんですね。何度も何度も同じ道を進んでいるうちに、いわば職人芸の域に達するのだと思います。それはどんな道を歩んでいる人でも同じなんじゃないでしょうか。
テンプル――
でも、普通からしてみればやはり不思議な診療ですよね。肉体以外の見えない世界のことも扱われるわけですから。
山本――
だからこそ、アントロポゾフィー医学の果たすべき役割は大きいんです。体系的な理論がしっかりとあることによって、診療内容を医者が理解するだけでなく患者さんにも第三者にも分かりやすい言葉で説明できるからです。
テンプル――
シュタイナー博士は、人知を超えた霊的な事柄についても、理性的な態度を伴った自然科学的な態度で探求するということを最も重要視していたそうですからね。
山本――
ええ。以前、日本ホリスティック医学協会主催のスピリチュアリティとエネルギー・ケアの講座で、“アントロポゾフィー医学とエドガー・ケイシー療法との対話”という企画を相方(前出の降矢英成先生)が企画されたことがありました。その時に私はケイシーが残した様々なリーディングを拝見して、内容について勉強しました。それで理解が深まったのは、ケイシーの伝える内容というよりも、アントロポゾフィー医学とはこういうことなんだなという自分の専門領域についてでした。必死になってケイシー、つまり相手のことを理解しようとした瞬間に、相手であるケイシーが鏡となってアントロポゾフィー医学のすべき役目や立ち位置を明確に映し出してくれたんです。
例えばケイシーがリーディング、つまり霊的な能力によって「この人の病気にはひまし油が効く」という情報を得たとするなら、アントロポゾフィー医学ではそのひまし油とは何なのか?どこにどういう治癒のメカニズムが働くのか?ということをきちんと理解し、説明するということに意義があります。アントロポゾフィー医学では、ケイシー療法に限らず様々な治療法の素晴らしさを「認識する」ためのお手伝いをする、という立ち位置にあるのではないかと。
テンプル――
なるほど。ホリスティックな治療を怪しい世界のものにするのではなく(笑)、きちんと体系的に説明することで患者の理解を促すことができるのが、アントロポゾフィー医学だということですね。
山本――
西洋医学の医師の中には、ホメオパシーを否定する人が多くいますし、排除しようとする動きも理解できないわけではないのですが、アントロポゾフィー医学は、この両者にも橋渡しすることが可能です。医療は、時代の進化に応じてアップデートさせていく必要はあるわけで、そのお手伝い役を担うのがアントロポゾフィー医学であり、役割の真髄かなという気がしていますね。
今日は期待以上に不思議な話を盛り沢山に聞かせていただきまして、ありがとうございました。
インタビュー、構成:河野 真理子
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