余は如何にして天婦羅★三杯酢となりし乎

小学校1年生の時から周りと言葉が通じないと言う思いをしてきた。

どういう議題でかは忘れたけれども、学級会で、ルールを守らない人には“罰”を与えようと言う提案をしたときに、他のクラスのメンバーから、「×とか丸とかどういう風につけるの」という問いを発せられた。こちらも語彙力がなかったのが悪いと言えば悪いが。「なんで君たちは“罰”と言う言葉を知らないのだ⁈」と叫んでしまったような気がする。

言葉と言うのは通じさせなければいけないものである。しかしその頃の幼い私は、それがまるでわからなかった。そういう愚かなガキのくせに、語彙だけは大人の世界をかじってしまってたので、つまりは言葉が通じないと言う世界に1人取り残されていたということ。確かにそれではいじめられるわな。

まあそんなわけで、世に棲む日々はある種の隠遁のような格好であり、かといって本物の大人の会話について行けるだけの資格もなく、そういう紋々をかかえて、やがて中学生になり、高校生になっていった。

そんな中で、出始めのPCに出会い、それにのめり込む。まあ基本はゲームばかりではあったけど。

そして大学生になった時、雑誌で「パソコン通信」が特集されているものを読んだ。

居ながらにして、ディスプレイの言葉でコミュニケーションが出来る!それは絶対面白そうだ。そう確信して、当時まだエラく高かったモデムを買いに、ツクモ電機に行った。それが1985年10月31日。そしてその時登録した名前が「天婦羅★三杯酢」であった。

少なくとも初期の「パソコン通信」時代、そういう思いを共有する人達があそこには溢れていた。

あまりバックグラウンドを詳しく尋ねたことはなかったが、基本的には彼らの語彙も思考も豊かであった。逆に私が”一般民衆”相手に得意げにしゃべっていた、多少高踏的話題を振ったとき「え?なんでそんな”言わずもがなな事を、そんなに得意げになってしゃべっているの?」と言われて、しまったと思ったり。

パソコン通信しかなかった時代は、電話はつないだらつないだだけ通話料がかかった。私の所在地はぎりぎり東京23区内であり、基本は3分10円で済んでいたが、ちょっと川を渡ったりした所に住んでいる友人などはいきなりこれが30秒とか15秒とかになるので、電話代を工面するのも大変な人が多かった。それより何より、都区内住まいでも、通信をやっていた頃は基本的に1ヶ月3万円を電話代に費やすのはみんなのミニマムだった。それだけに、あそこに集っていた人は知的レベルもだけど、所得のレベルも実はとんでもなく高等であった。

私が私でいる事が空間。それがネットワーク環境だった

言葉が通じる世界がある!という喜びこそが、私をこのネット空間という、いびつで、はかないところに生存を賭けさせた。

それから色々な事があった。恋もした。

そう。そこに「共通言語」があったのだ。

さすがに香炉峰の雪ズバリはなかったけど、例えば

「N81XN」という文字列が何を表しているのか、位のことが分からない人はそもそも通信をする事さえ出来なかった時代である。

仕事も何件もやった。これでつながった人から出資や借金をして、それがまたトラブルを呼んだりもした。いつしか35年も経ってしまった。

でもやっぱり、ネットワークの中の居心地は、そうでないところよりはいいと思っている。いや実際には、かつてのような高踏的な場面は少なくなり、リクツが通らない、語彙が貧弱な人々が多くなったという感想は持ちつつも、でも世間よりは”歩留まり”はいいよねと思って、今日もここでこんな事を書いている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?