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格闘と詩と部屋とワイシャツと私

↑こんな事を書いてしまったので、おののきながら今これを書いています。

かねどー氏がやっているものがどういう名前の格闘技であるかは知らないけど、柔道場の畳の上で行われている近接格闘で、基本的にはある種のフォールを取れば良いというものなのだろうなという感じで見ました。

本当に目にも留まらぬ早業で相手を倒しているわけですが、多分倒された瞬間、相手はあっけにとられていたのだろうなというのは分かります。

自然体の相手を、直線的な力で押し倒そうとするのは非常に難しいものです。でも、ある種のダミーを相手に投げかけることによって、そのダミーに対しての対処を意識が対応させる間に、他の部分は意識のコントロール下から(一瞬)消えます。そうなると、無意識の、素早いけど定型的な対処しか出来ないその領域を、技をかける側は利用して、例えば身体全体の重心を容易にズラして倒したり、フックにガードが対応しようと下がったところで顔面にストレートが決まったり。

そして、詩について。

詩的によき言葉は、短い文章や言葉遣いで、それまで曖昧にしていた色々な心象や事象を心に想起させるものです。
論理的に考えるとややおかしかったり、飛躍した理論を聞いたとき、人はなぜかその違和感に意識が集中しがち。そしてなんとかおかしなロジックをおかしくないもの、理解の範疇に留めておこうという行動を、これもまさしく語意通り無意識的に始めてしまうわけです。言語化されず、意識化もされないことは、意識的な抵抗をかいくぐって無意識の中へと入っていきます。

例えばここで、かねどー氏の好きなサザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバッド』の歌詞をあげてみましょう。


♪砂まじりの茅ヶ崎♫


砂まじりという言葉はたいていは具体性を持ったマテリアルを修飾するものです。通常の用例では地名に着く事はありません。でも、茅ヶ崎と言う場所は湘南あるいは地理に興味のある人であれば、真っ先に思い出すのは砂浜。海水浴やサーフィンをしたりする人間が多く集うところです。
海水から上がって来た人は、どうしたって足の裏や或いは他の場所にも砂を纏っています。それなりに真水のシャワーで流したりタオルで拭ったりしたとしても、そこかしこに海の砂は付いているものであり、そのまま服を着れば肌着に一旦は落ちた砂が再び皮膚を擦りつけ、日焼けでもしていようものなら痛い思いをしたり。そんな人々が群れをなしている様子。
あるいは、海岸から街に戻る道すがら、そんな人々が服やビーチサンダルから落とした砂がたまり、今度は車のタイヤの溝を埋めたりする。
そんな光景がありありと浮かんできます。
だから、茅ヶ崎という場所そのものが砂にまみれているというイメージを渙発されます。
そして♪人も波も消えて♫
人は消えてない筈です。波はたとえ人が死に絶えても常に寄せてくるものです。でも、言葉で”消えて”と言い切る事で、つまり路上が砂で覆われた茅ヶ崎に、その元となる人の群れは消えてしまったのだなというイメージが思い浮かびます。そのとき言葉として書かれて(聞かれて)ない”寂しい”という気持ちが、しかしどうしても湧いて来ます。
そして♪夏の日の思い出は ちょいと瞳の中に消えたほどに♫という歌詞がごく自然につながっていきます。
まあサザンの歌詞は色んな人が色んな曲について詳しく書いているので、そこら辺はもう他に任せるのですが。
詩の言葉というのはこのように、意表を突いたり定常的つながりとは違う連なりを見せる事で、無意識の領域に影響を与えようとするモノ。

ただ気取った言葉を連ねる事が詩ではないわけです。

そして、格闘も詩も、結局ターゲットは、受け取る人の無意識をどれだけつかんだり利用したりして、こちら側の望む動きを受け入れさせるのか、というところなのだと。

それが文化の日の、わたしの気付きだった、ということです。

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