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反論になっていない話。

これに対して

こんな話でリプライが飛ぶ。こちらの方がより多くの人に刺さっているようなので、favの数も圧倒的にこちら側である。

しかし、この言、果たして批判になっているのだろうか?

これは仮定の話ではあるけど、ここに「遺体の尊厳は絶対である。どんなに合目的合理性があったとしても、遺体を解剖などする事はまかりならぬ」という原理主義者が現れたら、どうであろうか?

いかなはなびら先生でも、そこは口ごもるところではあろう。
「いやぁ、ですからっ、ちゃんと”ご遺体”と呼ばせて、数々の”倫理的講義”を受けた上で彼らは遺体を解剖してよき医師として育てているので」
等と言っても、相手は”原理主義者”である。遺体に手をつけるとは何事である!この一本槍で攻めてくる。

「はい、わかりました、あなたがお亡くなりになっても別に献体とかしなくて結構です。でも世の中には”医学の進歩のために役立てて下さい”という献体希望者が沢山いますから」と逃げるかもしれない。しかし”原理主義者”はひるまない。

「たとえそれが自分でそのような不利益な扱いを同意しているとしても、たとえば被害者が殺してくれと依願していたとしてもその人を殺せば”同意殺人罪”として刑法犯になる。遺体の尊厳は絶対である以上、そのような本人の同意などというものに意味が無い」

結局のところ、はなびら先生の主張というのは「まあそんな事言うと”世間様”がうるさいから、尊厳があるように扱って、あと”倫理教育”とか施して、そうすれば遺体を教育・研究目的に使えるようになるの。そんな直裁的な言い方して世間の反発を浴びて糾弾されるより、そうやって”世間様”の倫理観に合わせて生きるべきなのよ(=だから余計な事言うな)」という事に尽きると思う。

もし先生が本当に、献体された遺体を「ご遺体」と呼ぶ事が大事であると考えているならば、
江本勝氏の『水からの伝言』の内容を受け入れるしかなくなる。

なにしろ氏は「毎日水に”感謝の言葉”を与えるのと、”罵倒”を浴びせるのと、完全無視したものの3種類で実験をしたら、感謝を与えた方が人間に好ましい性質になり、罵倒したものはひどくなり、無視したら腐敗を起こした」という事を本にしたのである。

たとえ献体された遺体を「貴いご遺体」と呼ぼうと、「くたばったヤツの身体」と呼ぼうと、そこに違いなどない。もし本当ならばエビデンスを見せて欲しい。近代科学の精神はそういう筈である。しかしそうではない、というのがはなびら先生の文意であろう。

となると、この意見に賛同している人々は、潜在的には近代科学よりも、『水からの伝言』的な、心情こそすべての世界感にシンパシーを感じているということなのだろうか。

ともかく実際には、はなびら先生は「儀式と教育!これをやっておけば、遺体への侵襲という非倫理的な行為も、より高位の倫理規範である”医学の進歩を止めてはいけない”に叶うものとなる。そこを忘れて”あんなのくだらない”とか、『それを言っちゃあおしめえよ』でしかないんだから」ということに尽きる筈である。つまり、元の”スガノ”氏のことを否定などしてないということである。

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