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豊臣秀吉の寧波から天竺へ構想

豊臣秀吉は、中国を占領すると日本を良仁親王と日本関白豊臣秀保にまかせ、後陽成天皇と大唐関白豊臣秀次を北京におき、自らは寧波を拠点として天竺をめざす構想を持っていました。秀吉の最終的な征服目標はインド大陸であったのでしょうか。

今回のオンライン講座では、寧波を拠点とする天竺征服構想は、インド征服を目指すものなのかということが話題になりました。そもそも、豊臣秀吉は中国大陸とかインド大陸を理解する空間把握ができていたのかと。秀吉は地球儀を持っていたらしいので、地球儀を回すことくらいはしたかもしれません。

では、寧波を拠点とする天竺征服の実態は何なのでしょうか。それは、東南アジアの商圏・貿易圏の把握。天竺はインドという意味がありますが、日本では東南アジアを指して使うことがあるそうです。1592年、秀吉は朱印船を派遣し、交易統制と貿易の利益の把握に乗り出しています。秀吉・家康の時代を通じて、日本はポルトガル船が握っている中国シルクの商権を奪おうと努めています。家康が朱印船を東南アジアに派遣し、日本人町が発達したのはそのためです。

と考えれば、秀吉が寧波を拠点として天竺(東南アジア)の貿易を支配しようとしたのは考えられることになります。

もっとも、戦いは緒戦の朝鮮出兵でつまずき小西行長は和平交渉で苦労するのですが、今回のオンライン講座では小西行長の和平交渉もとりあげています。


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