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FUJIROCK2020行きたかった

すーっと森へ抜けていく音と、雨の中の沸き立つ蒸気。ドロッドロの足場と、夜通しテントを打ち付ける雨と風と、ムシムシした暑さ。1年で過ごす中でもぶっちぎりで悪い環境なのに、そこで聴く音楽はとてもまっさらに感じて心臓の鼓動と同化するし、そこで飲むビールは体の芯までキーンと貫く。うぁぁ大自然と音楽を感じながらお酒飲みたくないですか。単純に「音楽」が好きな人は向いてない環境なのかもしれないけど、「音楽を通して何かを体験したい」人には、あんなぴったりな環境ないよなぁ。

ライブは、自分と向き合いながら、全てを発散し、一種の悟りみたいに、あぁなんでもいいやと解脱させてくれる。

FujiRockはそんな体験の最たるものだなーと思っている。普通に音楽を聴くなら、ぜったい苗場じゃなくて東京とかのホールで聴いた方が素晴らしい普通に。それでもやっぱり行きたくなる。もちろん有名な海外のアーティストがこぞって観れる滅多にない機会と言うのもあるけど、私は、自分の気持ちが解放できること、そしてそれを大勢の人と共有できること、が理由だと思う。

自分にとって音楽ってなんだろうとたまにふと考える。
音楽を「奏でる」のにはあんまり向いてなく、ピアノもギターも結構苦手。歌もそんなに上手くないしや音楽史の成績も悪め。気になった音楽はとことん深掘りするけど、知識は超浅い。書いてて悲しくなってきた。

でも普通にしてたら音楽好きだよね、とかいつも音楽の話してるよね、とか言われる。(音楽好きの友達には申し訳ない。)それは、ただ単に、自称「好きな音楽」が、自分に与えてくれたものが大きかったから。

その最初のきっかけは高校生で始めてライブを見たときかもしれない。
友達に誘われて行ったライブハウスは暗くて煙くてちょっとなんか臭かったけど、めちゃくちゃ近いステージで同い年くらいの人が、地下の薄暗い場所で、自分の想いや感情をそこに投げ出しているなんて思いもしなかった。衝撃だった。そこからライブハウスに通うようになった。ライブの前ではステージも客席も同じに感じた。手をあげて、もみくちゃになって、そこで気持ちが発散された。ステージの人は、おこがましくもそれは自分の心底にある何かを映してくれる鏡だった。

最近は夏フェスブームがにわかに勃興していたけど(COVID-19で一旦は失速しているけど)、自然と音楽へ解放を求める人々の生理的欲求の現れなのかも。(深そうで浅い考察)

昔から土着として人に馴染みのあった音楽は、いつの間にか商業化され、ある場所に行かないと人は音を楽しめなくなってしまった。本来あるはずの開放的な音楽をどこかで人は求めているのかもしれない。

ずぶ濡れになりながら、めちゃくちゃになりながら、それでも聴きたいし歌いたいと思ってしまうから、吊り橋効果じゃないけれど、どんどんFujiRockにはまっている。あと、単純にあの越後湯沢駅周辺の廃れ具合とか、実家!って感じがして、一年に一回里帰りしないといけない気分になる(失礼)。帰り道に新幹線から観る山の景色が個人的にはすごく好き。

あるはずのものが突然なくなってしまうことの多い2020年は、本当にそれがなぜ必要だったのかを考え直す時でもあるなぁと同時に感じる。

たっかいお金を出してFujiRockに行きたかったその衝動は、ただその事象をなんとなくバンド好きの義務としてとか、日本一のフェスだからとか、SNSでシェアしたいとかそういうのではなくて、日々の苦しみやずっと辛い時に聴いてきたその音楽を、多くの人と共感して、自分が心の底から解放されたーって思いたかったからだったなーと、思うと同時に寂しいです。

来年は開催されますように。

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