TBSK第12回定期演奏会の所感

久しぶりの生音の演奏会。
批評精神が刺激されたという意味で興味深い演奏会でした。

前提としては、全体的に個々人の技量は高いものがあるように感じられました。ただし、曲が一本調子に感じやすい演奏だったかと思います。

・プルチネルラ(ストラヴィンスキー)
“方向性の不一致”が最大の問題でしょう。ストラヴィンスキーの楽曲を聴くとあるあるなのですが、みんな違う方向を見て演奏しているような印象でした。同じフレーズを演奏していても、一体感を感じられない。早いパッセージは演奏するので精一杯で音の処理が雑になる。シーケンスの部分で、盛り上がっていくのか、衰退していくのかが見えず、平坦な印象であったと感じました。

・交響的舞曲(ラフマニノフ)
“音量のインフレ”が顕著に現れた演奏でした。練習の中でお互いが競い合うように大きな音を出すということをしてきたのではないかと思うほど、小さい音で演奏する箇所も音量が大きく絞り切れておりませんでした。

ラフマニノフの特徴は、”愛と教会とディエスイレの執拗な配合”にあると考えています。”愛”の部分でとてもしっくり来るのは、交響曲第2番の第3楽章でしょう。実しやかに噂されている、実は、”夜ベッドに入ってから朝を迎えるまで”の音楽というのが個人的に演奏した時にピッタリ来ました。クラリネットの愛の囁きから始まり、展開部では執拗な焦らしの追いかけっこ、最後の静謐さまでが見事に描き出されている曲だと感じています。本曲の中でも、ここまで情熱的なものではありませんが、焦らしのテクニックは健在で、ときどき踊りの中に見え隠れします。
また、”教会”のような響きを時々感じます。”愛”の裏返しでしょうか。交響曲第1番での失敗以降で、塞ぎ込みがちだったということを反映するような抑制的・内向的な響きのする部分があります。出だしのサックスのソロなどが該当すると思います。こういう箇所をどのように演奏するかが、もっとも音楽家の力量を感じる部分でしょう。例えば、仕事で失敗してうつうつとした気持ちとしても良いですが、さらに一歩踏み込んで、仕事で失敗してうつうつとした気持ちを一人暮らしの家の狭い風呂場でふと思い出してしまうという風なより具体的な情景を思い浮かべても良いかなと感じます。ちなみに、私の場合だと、映画を複数思いつきます。古いものから順に、ヴィレッジ(2005)、ルーム(2015)、ノマドランド(2020)など静かで少し暗めで主人公が森の中で悩むシーン、悩まなくても森の中で一人で車を走らせているシーンなどの情景がふと脳内に浮かんできてしまいます。
そして、最後が”ディエスイレ”。様々な変奏で現れては消え、現れては消えます。この執拗なバランスこそがラフマニノフかと思います。

本演奏の批評に戻ります。冒頭でティンパニーが最大音量で叩いてしまったために音楽を歪なものにしてしまいました。ラフマニノフの焦らしプレイを台無しにしてしまった点がまず勿体無い構成でした。そのあとも、”音量のインフレ”によって、小さい音を絞りきれずに、強弱がわかりづらく一本調子の音楽になってしまったという印象でした。
ただし、このような傾向はまた、ハリウッド映画を例に持ち出しますが、近年のアクション映画(ワイルドスピードやミッションインポッシブル)では、散見される内容でもあります。シリーズを重ねるごとに、パワーアップすると表現されますが、個人的には、アクション的なクライマックスが多過ぎて、物語の頂点がわかりづらくなっているように感じています。こういう芸術が現在の人々に迎合されるのであれば、こういう演奏もありなのではとも思います。

また、歌うメロディーの部分に関しては、歌っている自分に酔っている印象を受けてしまいました。自分が一番しっくりくる情景で演奏すれば、同じ経験をしなくとも同じ気持ちを聴衆に抱かせることは可能なのではないかと感じています。

・交響曲第5番(プロコフィエフ)
この曲を総括すると、
“アマオケは練習するとデメリットがメリットに聞こえてくる不思議な体験”でした。

細かい指摘点を、第4楽章はよくCDで聴いていたので、それに基づいて、曲目解説を引用しながらすると、
「チェロが4声に分かれ」の音程。これは、曲目解説者(後輩くん)の少し怖さも感じている。奏者にはプレッシャーを与えつつ、私のようにこの部分の音程を聞き、即座にプログラムを見返してしまったあたりに作為を感じてしまった。
「啖呵を切るようなヴィオラ」の合図は、フレーズが短過ぎる。IMLSPで譜面を確認したところ、半小節でフレーズが切れてしまっていたが、2小節は繋げた方がクラシックっぽい。
最後のクライマックスの金管は、相対的にスタミナ切れを感じてしまった。ここは爆発して、弦楽器のソロに繋げた方がより劇的であったと考えられる。

とまあ、感じるところはあったのですが、このようなマイナスの印象は、すべて練習で覆せるのだなというのが最大の発見です。

“方向性の不一致”に関しては、練習を重ねることによりなんとなくお互いが寄り添えるようになっていると感じました。また、“音量のインフレ”は、練習により音程がよくなり、常に会場に倍音の響きが聞こえることによって、音楽を豊かにする良い作用となったと思います。
コロナ禍で、陸上の記録が伸びたように、演奏会が延期を繰り返したことによって、新たな価値を見つけ出す契機になったのだなと感じました。

・聴衆の話
コロナ禍の話題が出たので、ついでに気になった話をもう一つ。
今回の演奏会は、事前予約でありながらも、無料であったことが影響しているのか、少し客の質が低いように感じました。

演奏の途中にトイレに席を立つ人が非常に多かった点です。しかも、曲間など関係なく、複数回出入りを繰り返す人もいました。

実際はみな特徴があって、足が少し不自由なおじさんであったと思います。歩くことと尿意は関係があるようです。たぶん、コロナ禍ということもあり外出が極端に減って、足が不自由なことも災いして、下半身の筋肉が衰えたことが原因かなと思います。また、曲間関係なく席を立つ点に関しては、音楽のサブスクリプションサービスの充実という点もあるように感じられます。自宅で自分の好きなタイミング聞くことも止めることもできる。生の演奏会は、そのタイミングでしか味わえないのに、なぜか勘違いしているという気がしました。演奏の途中で外に行って、動画を見ていたようした。こういう発想は、今まででは考えられなかったのではないでしょうか。

今後演奏会を聞きに行くことも、演奏することもあると思いますが、やはり環境も大きく変化しているようです。その点だけは留意しつつ、演奏を楽しんでいきたいですね。

終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?