精神障害者は辛いよ6

失意の中、再入院と失職

 仕事を続けていればもしかしたら違った出会いがあったのかもしれない。女性の多い職場だ、この境遇を話せばそれに同情してくれる健常者の女性も現れたかもしれない。しかし、自分にとっては失意の中、仕事にやる気を見いだせないでいた。
 すべてに失望し、全てを恨んだ。故に、自暴自棄になりすべてが馬鹿らしくなった。そんな状況で仕事が続くわけもない。ある時、同じ部署の人が謎の仕事の振り方をするのでそれにすごく困惑させられた。命令されるのはされるのだが、そのように仕事してしまうと怒られてしまうのだ。これは市役所のK氏の曖昧な命令と似ている。エクセルデータを書類と確認し、違うところがあったら編集してデータを加工してくれというのに、その後で「テルさん、まさかエクセルデータ加工してないですよね?」と訳の分からない圧迫。その後もいくつかの仕事を任せられるが、いずれも断る。
 当時は担当となる人事職員というのがいた。彼女に相談することで一時的に彼女の中で預かりという形でスルーすることもできた。しかしながら体調の変化はストレスとともに如実に表れる。元々、不眠症というのが自分の一番つらい病魔である。仕事をしていても、何をしていても睡眠が最優先だったし、眠れないないことはしばしばあった。それ故、翌日朝起きられず仕事を休むことはたびたびあった。それは失恋と一見関係のないことであった。しかし、失恋後の自分のやることのむなしさ生きていることの辛さ、それに比例して増える薬、眠れない日々が続き臨時診察の回数も増え最終的に入院することを余儀なくされる。
 大企業なので、入院して休職することは幸いできた。しかし、体調が戻るのにはかなりの年月を要することになる。大抵の入院の場合、スーパー救急だと三か月での退院が目安となる。それ以上は統計上の平均が考慮されなかなかできない。療養病床に移動することで例外を作ることはできるのだけれど、それでも最長の入院期間一年弱…
 決してすべてに失望していたわけでもない。「人生には煉瓦で頭を打ち付けられるような苦しみを味わう日がある。とても苦い薬ではあったが当時の私にはそれが必要だったのでしょう。」アップルの故スティーブジョブズ氏の言葉である。彼のことは有名だったし、会社の中の研修での「伝説のスピーチ」として研修内で動画で取り上げられていたほどだ。その動画をユーチューブで見るのだが、自分で創業した会社を辞めさせられてなお、自分の仕事に取り組み続け、結婚をし、復帰しiMac、iPod、iPhone、iPadと世界を激変させる商品を作り続けていた彼の生き方を見て、自分自身にも何かできることがあるのではないかという考えにいきついたのだった。これは、彼の人生でいうところの劇薬。その後に素晴らしい出会いや自分しかできないようなことがあるに違いない。だから、人生に生きる意味はあるんだ。絶望してはいけない。そう、言葉を繰り返しているうちに人生に希望を言い出すようになった。
 無論、いい話ばかりではない。失恋した直後は彼女との口論で罵詈雑言を叩きつけたし、家族内で暴力をふるうこともあった。自暴自棄になって、飲めない酒を飲みながら吐いて吐いて吐いて…そんな状況なので長期の入院はやむを得なかった。自分を取り戻すのに時間がかかったことは確かだ。

契約の問題と失意の中の希望
 仕事を辞めることになったのは微妙な判断だ。元々、某クレジットカード会社には埼玉にも支店がある。それが何故、わざわざさいたま支店ではなく本社の東京まで呼び出され勤務していたのか。それは私が公務員あがりの人間で、当時の人事部には逆に会社を辞めて公務員になる人がいたからである。彼は人望もあり、仕事もよくでき、社内外からも慕われていた。故に辞めることに対してせめてもの餞別として公務員を経験した自分を、同じ人事課内で採用することによってノウハウを提供する。つまり、私以外の誰でもよかったのだ。ただ、単に精神障害者で元公務員だった人間を採用するのがたまたま都合がよかったというのだ。これが真相である。
 それ故に彼が退職後、公務員になってからは自分の役割はただ精神障害者雇用が進んでいるから障害者を雇う為だけということで、わざわざ本社に置いておく必要もない。また、一年契約の契約社員であり、同時に週5日40時間働く社員という訳でもない。退院後、人事部長や産業医、そして担当であった女性職員とも面接を繰り返すのだが三か月が過ぎてもなお、私の処遇は決めれかねていた。あるいは自主的に辞めるように促されていたのか。あるいは契約期間を待ってそのまま終了させようとしていたのか。ここら辺は当時の会社の状況によるものなのでわからないままである。しかしながら、障害者採用に関しては一貫しているので、決してネガティブなものではなかっただろう。私以外にも身体障害者で耳の聞こえない人も同一部署で二人もいたし、総務のメール室ではそれに劣る耳が聞こえず口話(発音はぎこちないが理解できるようにしゃべれる程度の能力)がない人が担当として各部署の郵便物の区分というのをしていた。そこに毎日、人事部あての郵便物や文章がないかをもらい受けに来るのも私の仕事であった。時に障害者のダブルカウントの人(身体障害と精神障害が重複するとダブルカウントとして二人の障害者を採用した扱いになる)の研修に同席し、筆談で研修内容を伝えたこともあった。
 先輩男性職員からは「ただ、戻ってくるものとばかり思っていたが何でこんなに時間がかかるのだろうと同時に思っていた」と、のちに言っていた。私を辞めさせたいもの、私を雇い続けたいもの、会社でありがちな意見の対立、また会社社長の判断、もしかしたら取締役会まで行って紛糾していたのかもしれない。電話が一度だけあって、給与の問題があげられていた。当時の私は高給取りで当時の臨時職員と同様の時給をいただいていた。現在からみれば東京の時給ならそれくらいあってもいいはずなのだが、当時としては障害者をその時給で雇うのはあまりにも破格だ。それが下げられるかもしない。下がるとしたらどこまで下げて可能か。そんな不毛な会話までさせられていた。
 ここで僕は一念発起する。「自分の中に金はあるし、障害者年金もある。失業手当ももらえるだろうし精神保健福祉士になれば自分でしかできないような仕事ができるのではないか。なにせ障害者の精神保健福祉士だ。会社に行ったおり、忘れてきてしまった上着を丁寧に梱包され自宅に送り返され状況にもう、このまま会社にはいられないと決めつけ退職し精神保健福祉士の学校に行こうと決断をしたのだった。僕はまだ若い。まだ、若いと言っても30オーバーであるがここで精神保健福祉士として資格を取ればワンチャン正社員で仕事をする機会に恵まれるかもしれない。そんな思いが脳裏をよぎったのだ。同時に出願をすることはタイミングが大事である。時期は年度末で最終の選考試験の日程(とはいえ、自宅で論述の問題を記載するだけだが)が迫っていた。故に、人事部の方には辞職することを伝え、受かるかわからない精神保健福祉士の勉強をすることに。
 家族からは反対の意見が多かったが、ここでも父親としては障害者雇用の非正規と正規職員を天秤にかけた時に正社員で働くことが望ましいとされ、とにかくストレートですべて通ることを条件に(学校卒業後、試験に一発合格、その後正社員の仕事に必ず付くこと)精神保健福祉士の勉強を許された。とはいえ、学費や生活費を含めすべては自分で何とかするんだけど。
 かくして、公務員時代に大学卒業の資格を取ったことが生きる形になった。精神保健福祉士の試験を受けるためには大卒ではなくても可能なのだが、その場合は専門学校に通学して2~3年勉強しなければならない。それは百万以上の学費がかかり、とてもではないが払いきれるものではない。しかしながら、大学卒業資格があれば通信教育で受験資格を手に入れることができる。実習費用がかかるけど、なんとか誤差の範囲内だ。

 こうして私は精神補円福祉士の資格を目指すことになる。その結果がどうなるかつゆ知らずに。


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