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書くってことは

感じたことを感じたままに表現することが好きだった。

そういえば、こんな感じに夜にぼーっと適当に手を動かして一筆書きで文章を書くこともなくなった。昨年はコラムもやめてしまったし、noteもほぼ書いていない。

書かなくなったというより書けなくなったから。

もっと言うと、書く意味がなくなったのかもしれない。

書く意味や理由は、人それぞれ違う。書くための素材もまた、違うのだと思う。

僕にとって文章を書くことは、感覚を表現する欲求を満たすもので、書く素材は情報と刺激と衝動的な感情だった。

今日は、なんで昨年文章を書かなくなったのかなぁと思い返す時間があった。そういえばほとんどの文章は、仲間と飲んでるときやリラックスしてダベってるときに対して思考もはさまずに口走ったものを「おもろ、あとで書いたろ」とか言ってスマホのメモに一文だけ残したものから書いていた。

情報は今もノイズも含めてたくさん入ってくる。見たくなかったものや、飽き飽きしているものまで。

ただ、感情が動かないと、心も動かないし、口も動かない、メモがなければ手も動かない。

考える時間は増えた。一人の時間が増えたから。

でも、感じる時間は減ってしまった。それも一人の時間が増えたからだ。

今日は、久々に外に出る機会があった。誰とも話をしなかったけど、3Dの動いている人間や、動いてる乗り物や、暖かくなったり冷たくなったりする空気を久しぶりに感じた。

何も知識は増えてないけれど、こうやって、カタカタ何か文章を書いてみようと思うだけの刺激は持って帰ってこれたみたいだ。

今こうやって文章を書いていると言うことは、ちょっと感情が動いたしるしなんだろう。

感情が死んでいくことにすら、気づかないこともあるだろう。そして感情がが生きていたときのことも思い出せなくなることも、もしかしたらあるのかもしれない。

生きているということが、感じられてよかった。

書くことは生きていることの確認作業なのかもしれない。

だから、この生きてるか死んでるかよくわからなくなりそうな狂った毎日で、それを忘れないように、たまにこうやって生きた文章が書ければいいなと思った。

夜も遅いし寝ようかなと思ったけど。

明日になるときっと忘れているし、きっと後悔もするから。今日こうやって書いておこうと思う。

長い夢だなぁ。

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