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悪を見て見ぬふりするぼくらの懺悔

信じてないような人々の懺悔熱

歴史学者ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』は、近代の曙としてのルネサンスの文化史なのであるが、最後の章ではルネサンス期イタリア人の信仰が取り上げられている。世俗的関心が強く不信心に見えるようなイタリア人たちは、また時おり強烈な懺悔熱にとり憑かれる人々でもあったようだ。

一見矛盾するかのような二面性を持つのであるが、ルネサンス人は決して神を信じない人たちではなかった。ただ、教会はあまり信じていない。ローマの教皇が一人のなりあがり者の君主として覇を競っていた時代であるから、それも無理はない。だが、教皇の地位にある人間は信じないが、教皇という地位は信じている。さんざん教皇にたてついた人間も、死に際しては教皇の祝福を求める。つまり、神が世界を創造し、その世界の秩序に教皇という地位があり、自分の救済に影響を及ぼすことができるということだけは信じていた。

であるから、懺悔熱というのも一種の反動である。うまくやった奴が勝ち、出自と関係なく自分を磨いた奴がエライ、という下克上の世のなかで生き、そういう生き方を肯定しながらも、心の底では罪を感じている。そうして、危機などの際にたまりにたまった罪を一気に贖おうとすることになったらしい。

フィレンツェでサヴォナローラという修道士が支配権を握ったときには、贅沢品に加えて瀆神的であるとされた書籍なども広場に集められて焼かれた。文芸の都において、突如として焚書が復活したのである。これが一個の博物館や図書館ができるくらいの量であったらしく、列席していたヴェネツィアの使節が、そんなもったいないことをするなら私が買い取ってもよいと提案したのだが、その提案に対する回答は、その使節を象った人形が作られていっしょに焼かれるというものだった。

立ち向かわれる悪と無視される悪

もう知らない人がだいぶん増えたが、冷戦というのは核弾頭がいつ頭の上から降ってきてもおかしくない時代であった。昨日までの平和が、突如として今日破られることがありえたのである。

朝鮮戦争なんかは、下手をすると米ソの熱戦と化して、そうなれば米軍の前線基地たる日本にもソ連の核弾頭が降ってきておかしくなかった。だが、当時の日本人がそれに恐れおののいたという話はあまり聞かない。北朝鮮軍が釜山まで南下した際は少しパニックになりかけたが、この脅威が退くと、特需で景気がよくなってよろしい、できれば長引いてほしい、なんてことを言う不届きな者もでた。不届きであったかもしれないが、多くの人のホンネはそうであったらしい。

しかし、朝鮮が原因でなくとも、冷戦が熱戦となり、予告もなしに核弾頭が降ってくる可能性というのは否定できなかった。それで、アメリカには地下室を掘ったりする人が出たし、核シェルターみたいのを作って売る商売もあらわれた。もっとまじめな人たちは、自分たちだけが救われようと思わずに、核廃絶とか戦争放棄といった理想のための運動にかかわっていった。

それにもかかわらず、人類の大半は、何ごとも知らないかのように普通に暮らし続けたのであり、朝鮮戦争の頃の日本でもそうであったようである。まずは日々の糧を得るための仕事であり、余裕があったら核の脅威も考えようということだが、その余裕が当時はなかったらしい。今日のウイルスに対する反応とは逆だ。

同じ脅威でも、核とウイルスじゃぜんぜんちがうのだろうが、どこがどうちがうかというとどうも自明ではない。どちらも現実的脅威だし、他人事でもない。直接には目に見えない脅威であることも同じである。でも、核の脅威に関してはなるべく知らない、考えないことにして平気なのに、ウイルスについては騒げば騒ぐほど意識が高いということになってる。

手軽にできる罪滅ぼし

これは核だけじゃなくて、地震などの天災、果ては以前の疫病にさえ当てはまる。なぜそうした脅威と今回のウイルスに対する反応がこれほどちがうか。

うまい説明が思いつかんのだが、一つの仮説はこうである。今日、ウイルスについては自分一人で比較的容易にできる対応がある。手洗いやうがいをしっかりする、人前ではマスクをする、不要不急の外出はしない、といったことで、やるべきことをやってると言えるようになってる。核の脅威であると、今でもどのような対応をするのが適当なのかよくわからないし、本気でやろうと思うとえらく手間暇やお金がかかる。

そうすると、ウイルスについては「自分はやるべきことをやってるのに、それさえしない不届きな奴がいる。そのために悪がはびこる」と言うことが簡単なのである。さらに、この小さな努力に大きな報酬がつく。ちょっとしたちがいを善人と悪人の越えがたい垣根に転化できる。「自分だけではなく人の命を救うためにオレたちは自分を犠牲にしてるのに、あいつらは自分らのつまらない楽しみのために人の命を犠牲にしている」と言うことができる(これとても幸運な人たちにしか言えないことで、自粛したら飯が食えなくなる人にとっては食い詰めるか人に非ずと呼ばれるかの究極の選択だ)。核の脅威であると、同じことを言うのは困難である。

そうなると、こんな時にでも、日ごろたまっていた罪悪を洗い流そうという心理が働くのも咎めるわけにはいかない。ぼくらは日ごろ何でもないような顔をしているが、実は他人の命なり生活を犠牲にすることによって自分の生活が成り立っていることにうすうす感づいてる。だけど、そんなことを考えても仕方がないから考えない。で、考えないためには、知らないことがいちばんである。そうやって、ぼくらは自らの意志で無知を選んで生きている。

でも、心の底では罪を感じている。それで懺悔の機会を求めてる。そんな機会にでも出逢うと、昨日まで平気で飢えてる人の前で飯を食っていた奴が、他人のために寝食を忘れたり涙を流したりできるようになる。

不謹慎な言い方であるが、今回のウイルス騒ぎは、懺悔と罪滅ぼしのための絶好の免罪符となったのかもしれない。だが、これはウイルスだけに限らない。選挙前にはそういう懺悔が多く聞かれる。普段は政治に注意を払ってない人にかぎって、がぜん頑張り始めたりする。聖人なんてのもそうで、生きてるときには敵だらけだった人が、死んだとたんにすべて赦されて偉人に祀り上げられたりする。

借りは少しずつ返した方がいい?

こんな風に書くと裏表がある偽善者のように聞こえるが、悪いことばかりではない。偽善者になるには、まず何かを善として受け入れてないとならない。ルネサンス期のイタリア人同様、不信心に見えるぼくらにも何か完全には捨てきれない理想がある。それは現状とは別のものであり、自分の目の届かない世界に対する配慮を含んでいる。

これが神への信仰とか罪の意識という形をとるとはかぎらないが、自分が存在すること自体が何か自分の外にあるものに対して借りを作ることであるという意識は、キリスト教に限らず多くの人に抱かれている。別の言い方をすれば、命は個人で完結するのではなく、一つの流れであるということである。こんな折にそんな意識を確認することは有意義である。

そして懺悔熱を共有しない者に投げかけられる非難も往々にして正しい。自分のつまらないエゴのために他人の命や生活をなんとも思わない奴が確かにいる。「今回は遊びじゃないんだ、真面目にやれ」というだけの道理はある。

ただ、あまり急いで借りを返そうとするあまりに、他の悪に対する警戒を失ってしまうという弊害がある。ヴェネツィアの使節は文芸の価値が失われることを惜しいと思ったのであるが、そうした価値を配慮すること自体が善に対する裏切り行為となり、迫害の対象となったのである。

さらに、普段から自分だけのものではない命を尊重し、罪の意識を抱えながら生きてる人もいる。だが、こういう事態になると、むしろ普段やってない者が余計に熱烈な人道主義者になる。にわか作りの主義は極端に流れやすい。こんなときには日常的人道主義者が穏健すぎるとして異端視され、過激派によって迫害されたりする。

攻囲の熱情がそこには猛り狂っている。他の人々と同じように熱狂することを欲しない者は疑わしい奴とみなされる。正邪の判定に時間をかけて研究する余裕のない、急迫した時代においては、すべての嫌疑者は裏切り者である。

これはロマン・ロランが第一次大戦をふりかえって言ったことばだが、今回の騒ぎにも当てはまると思う。

ぼくらは、普段は自分が善人であるか悪人であるかはっきりしないことに気づいてる。だから実は善人であったという確証を得たい気持ちがある。だけどそれだけが突出すると、これもまたエゴイズムに堕する。

一例を挙げれば、マラリアとかエボラなどにはあまり関心がもたれないのにコロナだけがこれだけ騒がれたのには、先進国に生きるぼくらのエゴがある。自分にも脅威であるから大騒ぎするのであって、そうでなければ「まあ、病気じゃ仕方ない」で多くの人は済ますはずである。「人の命がかかってるんだぞ」というときの人の命とは、やっぱり自分や自分の大事な人の命なんであって、それを忘れてしまってはせっかくの懺悔も中途半端に終わる。

だから、罪の意識というやつはあまりため込まずに、定期的に懺悔をして反省をするという生き方のほうがよろしいかもしれない。そのためには、やはり知らないことを知って、考えたくないことを考える習慣を身につけておく必要がある。

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