人はなぜ生きることに飽きなかったのかな

最近、米国のオレンジ・ジュースにはいろいろなものが入っている。ビタミンとかカルシウムとかアンタイオキシダントとか。数年前までは、果肉なし、果肉入り、果肉たくさんの3種類しかなかったのであるが、これが商品の差別化というものらしい。「オレンジ・ジュース」というだけでは他の商品との違いが出せないから、付加価値をつけて売り上げを伸ばそうということらしい。

オレンジ・ジュースにかかわらず、チョコレートとかシリアルとか携帯電話、果ては音楽までこの付加価値合戦がエスカレート気味だ。日本みたいな商品の差別化が進んだ国から来ると、そもそも米国の商品は質より量というか、新しいもの、付加価値の高いものというよりも、安くてよいものを末永く愛用するみたいなところがあってちょっと物足りなかったのであるが、ようやく日本並みになってきたようである。

消費生活の外の楽しみ

商品の差別化というのは大衆消費文化の高度化した段階と言えるのであるが、資本主義先進国の米国より、むしろ日本の方が進んでいたような気がする。ちょっと前までは、消費というのは身体の必要を満たすためのものであり、それ自体を楽しむと言うより、むしろ仕方がないからするという類いのものであったのだと思う。もちろん、どうせやるなら楽しくやろうという考えがなかったわけでもないけど、むしろ人生の楽しみというのは消費生活から外れたところにあるというのが常識だったのだと思う。

近代日本では政治的なスペースが限られていたため、消費生活が生活そのものとなってしまったようなところがあって、人生の幸せ=様々な商品・サービスの消費みたいになってしまったところがある。きっと欧米には、消費生活以外にも人生の意義を追求する場があったから、日本ほど新しい商品の発見・開発に汲々としていなかったのだ。

それが、欧米でも資本主義の高度化とともに、生活の場が生産―消費のサイクルに巻きこまれていって、楽しむための消費というのが人生の意義になりつつあるような気がする。マンガや音楽、ビデオ・ゲームなど日本の「大衆消費文化」が世界中でもてはやされるようになったのも、こうした高度消費社会という現象と無関係ではないのかもしれない。

変化の中の単調

一昔前と比べて、我々の生活というのは変化に富んでいるようにみえる。今日では、毎日のようにどこかで誰かによって新しいものが創られ、結果として我々の経験もより多様で変化に富んだものとなっている。でも、その変化とは新しい財やサービスの供給にしかすぎない。変わっているように見えて、実は同じことの繰り返しなのであり、ちょっとマンネリ化の傾向がみえるわけだ。それがむやみに拡大再生産されていくから、経済は常にバブル含みというか、景気次第で需要が大きく減退し供給過剰が顕在化するような構造になりつつある。

すでにおなじみの批判なのであるが、じゃあ、こうした多様な消費財がない生活とはどういうものなのかと問われると、ちょっと想像することが難しくなってきている。もし、オレンジ・ジュースは一種類だけ、商品が生存に必要最低限のものだけ、テレビ番組も国営放送一局となり、遊園地や旅行などの娯楽の種類も限られたものになった時、我々の生活はどうなるだろうか。

多分、毎日毎日、同じことの繰り返しという生活のリズムばかりが目立ってきて、かなりつまらないことになりそうである。言ってみれば、商品の差別化・多様化がもたらしている皮相的な変化は、この単調な生活本体の虚しさを覆い隠す幕のような役割を果たしているのである。こうした表層の変化をはぎ取られた人間の生活というのは、自然界にあるものを加工し、それを消費し、ゴミを残すという自然界の循環からさほど遠くにあるものではない。消費のレベルが自然界の代謝能力を大きく上回ってしまったという点以外は、今日の人間の生活も自然界に生きる動物のそれからさほど遠くない。

消費生活の外の生き甲斐

じゃあ、そんなに商品が多様ではなかった昔は、どうやってこうした耐え難い生存の痛苦を和らげていたのだろう。一つには芸術とか学問とか呼ばれるような活動がある。そんなのは今でもあるじゃないか、と言うかもしれないけれど、消費財化される以前の芸術や学問というのは、その場の消費に供されてゴミになるものではなく、そうした生産―消費のサイクルを越えて残るものを創る活動であった。つまり、一時的な欲望の充足というよりは、そうした皮相的なものの奥にある「常なるもの」(美とか真実)といった価値を追い求める活動だった。

芸術/学問の場で行われることは同じことの繰り返しではなく、一回限りの出来事である。永遠なる美とか真実というのは「未知」の世界に属し、その探求というのは終わりのない試行錯誤の連続である。それぞれの芸術作品や思想というのは、そうした一回限りの試行錯誤の落し子なのである。でも、その中でもよいものは、消費されて消えてしまわずに、のちの試行錯誤の土台となり利用され続ける。ゴミしか残さない消費生活とは違って、何かを残す。

また、「政治」という分野も、かつては生産―消費のサイクルからは外れたところにあると思われていた時代があった。そこでは、ともに生きる人々が日常の消費生活から離れ、「未知」なるものの存在を確認し、共同でそうしたものに対処する方法を討議し、またその記録を受け継いでいく場だった。そうした政治の場というのは、全てのものが生まれては潰えていく自然の容赦ないサイクルから、人間の存在を守る役割を果たした。

新しいものがもたらす喜びと失望

これでもかというくらい「新しいもの」が横溢する現代消費社会。ちょっと歳をとると、ついていくだけでもしんどい。でも、そうした「新しいもの」の氾濫の奥底には、古代以来の変わらない単調でつまらない日常生活というものが連綿として続いている。ふと消費生活に疲れた時に、そうした闇を覗き込んでしまい、「生きる」という事業が要求する忍耐に恐怖を感じてしまう人も少なくないと思う。

そうした恐怖を覆い隠すために更なる新しいものを追い求めるのか、それとも消費生活とは異なる人生の場を見出すのか。日夜新しい商品の開発にいそしむ人々には悪いのであるが、自分にとっては、少なくともオレンジ・ジュースの差別化がもたらす幸福はあまり長続きするものではない。

今日では、こんな後ろ向きなことを言うと、若い人のみならず年寄りにまで叱られそうなんであるが、自分はいたずらに変化の少なかった過去を懐かしんでいるのではない。生全体が同じものの再生産のプロセスに巻きこまれてしまうと、人間として大事なものが失われてしまうと思うんである。ちょっとちがう同じものを消費することにとどまらず、こういうふうに生きれたらいいなという人々の潜在的な願望を掘り起こして、少しでも実現に近づけるような努力をしていかないと、生きるのに飽きてしまう人ばかりが増えていきそうであると少し心配なんである。

(2010年1月10日)

コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。