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男らしく朗らかな思想(自由について)

誰もが自分の選んだのではない運命に投げ込まれる。自分の承認や関与なしに造り上げられた世界に産み落とされ、その中で生きることを余儀なくされる。生まれた時点ですでにぼくらの運命は決まっている。何を覚えていて、何を忘れるかさえ、自分の自由にならない。

だが、ぼくらには自由な精神がある。自由な精神が自分自身を見出したとき、それは忘れられたものを思い出そうとする。無理に覚えさせられたものを忘れようとする。精神は想像力を用いて運命を女神の姿に変える。そして、運命を甘い言葉と暴力によってかしずかせようという試みが可能になる。

投げ込まれた運命を引き受けて、そこでベストを尽くす。それが人類がやってきたこと。それが歴史。後知恵で見れば愚かなことの方が多い。もう少しうまいやり方なかったのか、おかげでこっちが迷惑してるって言いたくなる。最後に笑うのはいつでも運命の女神に見える。でも、何もしなかったら歴史はない。今の人類はない。ぼくらはもうぼくらじゃない。人間じゃない。

自分の投げ込まれた運命を引き受けるというのは、無批判に現状を甘受するということじゃない。目を逸らさずに自分自身を見据えるということ。自分に閉じこもらずに自分の投げ込まれた世界に目を開くということ。自分の都合のいい希望的観測にすがらないこと。目先の問題の解決ごっこでごまかしたりしないこと。どこまで知ることができて、どこからは知ることができないか見極めること。

その上で生きること。生きることとはただ死なないことじゃない。自分ができるうるかぎりの最良の判断をして行動すること。多くの助言を求めること。科学にも哲学にも宗教にも。だが今何をすべきかという具体的な助言は求めないこと。科学や哲学や宗教にも。

判断は、自分と自分が想像しえるだけの他者において最良であると自らが誠心誠意思えるかどうかを基準にすること。つまり「人間」として考えること。そのために他者のことを多く知っておくこと。空間的・時間的他者のことを。遠い過去や海の向こうに生きる人々のことを。そのために共感する力を解放すること。己を空しくすること。旅に出て何者でもなくなること。

安易な必然(「ほかにどうしようもないじゃないか」)に安住せずに可能性に賭けること。可能なことを構想すること。ぼくらのあとに生まれてくる不幸を生負った人々のために構想すること。無知を自分のために利用しないこと(それは本当の無知じゃない。卑劣で臆病な知だ)。つきまとう見えざるものを振り払わずに不安を感じること。その不安から希望を取り出してくること。

そして、まず自分が飛び降りること。賭けのリスクをみずから引き受けること。説教ではなく実践で範を垂れること。言い訳に他人を使わないこと。そして、やるべきことはやったという明るく潔い態度で、運命の女神の気紛れを愛すること。

これらのことを信じ切ること。多くの人間がこのように教育されれば、その分世の中がよくなると信じて生きること。なぜなら、そうしないと、偶然の僥倖に頼らずに世界に生きる痛苦を耐え切ることができないから。

*****

上の文章は、主に啓蒙主義時代のドイツ文学に見られる自由の観念というものを、自分の内面的体験に引きつけて理解するために書きつけたもので、あまり正確なものではない。それでもこれを書かずにいられなかったは、以下の理由による。

啓蒙思想というと、今日では理性の特権化とか決まった原理を機械的に適用する冷たい思想というイメージが定着している。啓蒙思想の生んだ自由の思想たるリベラリズムも、人の知らない原理を知ってる人が「君はあれをすることは許されるが、これをしてはならない」なんて法律家みたいなことをいう、どちらかというと不自由の思想に近いようなことになっている。

ところが、レッシングやゲーテを産んだ文芸の啓蒙思想について書かれた本を読んで、自分はびっくりした。啓蒙思想にもこんな生き生きとした思想があった。歴史主義とか生の哲学なんかを後知恵で読み込んだところもあるんだけど、反啓蒙主義と目されるロマン主義や実存主義なんかの芽は、すでに啓蒙思想に内在されていたとも受け取れる。しかも、ロマン主義や実存主義とは異なって、燃える熱情としかめっ面ではなく静かな情熱と落ち着いた笑顔でこれをやってしまうのである。ぼくらが思っている以上に啓蒙思想というのは豊かなものであった。

こうした啓蒙思想を形容するのに、「男らしい」思想という言葉が使われている。英語では manly であるから、「人間らしい」とも解せる。もうこんな形容があまり聞かれないのは性差別用語であるからだが、生物学的な男性とは切り離して考えても、こうした「男らしさ」というものがもう想像しがたくなっている。そんな人間になどにめったにお目にかからない(ちなみに記事にヘッダーのために適当な「男らしく朗らか」な画像を探したのだが、どうしても見つからないので、結局レッシング本人に登場してもらうことになった)。

朗らかに伴走者のいない孤独に耐え、それでも世界を愛する態度。理解されずに不遇な人生を送りながら、なおも人間を信じる自信(周囲の人がなんと言おうとも、人間性や世界は自分の側にあるという確信から生まれる)。時代に逆らい討ち死にして、それでも呪詛を残さない潔さ。いちばん大事なことは語らずに自分に胸に秘めておく諦念。そんなことを大事に思わない連中から不真面目な議論を吹っかけられないために。そんな暇があったら、自分の信念を貫き黙って働く。そうして説教ではなく実践で人を変える。

今日の「自由人」の典型は「リベラル」であるが、饒舌でちょっと小言の多いインテリあたりを想起する。理性万能主義とか科学万能主義みたいに、知的にはちょっと能天気な人たちが想像される。そうかと思うと、「思想」のほうになると、教養主義の影響でなんだかくすんで暗いイメージがある。呪詛と怨恨にまみれてる。

だが、近代の自由人たちのご先祖の思想を読むと、こんな忘れられた声が地の底から響いてくる。リベラリズムもまた国家や教会という権威に抵抗した思想であったから、一種の山賊、家畜泥棒団的なところがあったらしい。ブルジョア思想ということにされたのは後の時代のことである。

ということは、正統の地位についた今日では、自由の思想がむしろ「キリスト教」化、神学化してしまったらしい。道理で、自称「リベラル」が中世の教皇庁の検閲官みたいになった。この硬直した自由の思想をもういっかい柔らかくもみほぐす按摩の手みたいなものが必要とされてる。この挑戦を、誰か受けて立つ「男らしい」人間がいないか。

2021年4月14日追記

レッシングが影響を受けたシェイクスピアの『ハムレット』に、つぎの台詞がある。

人生のあらゆる苦労を知っていながら、すこしもそれを顔にあらわさず、
運命の神が邪険に扱おうと、格別ひいきにしようと、
いつも同じ感謝の気持ちで受け容れる。
そういう男だ、君は。

ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』に第三巻第39節に引用されていた。ショーペンハウアーの解釈はややストア派的、厭世的なもののようであるが、マキャヴェリやレッシングのそれは、行為によって運命に賭ける前向きなものである。

(画像はレッシングの肖像。Anna Rosina de Gasc - http://museum-digital.de/nat/index.php?t=objekt&oges=777, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17510229による)

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