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汲めども汲めども(民衆が夢見たユートピア)

中世以来、日本の民衆が待望したミロクの世は一種のユートピア。救済が死後にあの世ではなく今ここで起こると信じられた千年王国思想である。だが、教義上は、実は最終的な救済の一歩手前の段階らしい。だから、まだ人は食べねばならないし、病気にもなる。きたない話になるが、排泄も行わなければならない。だから、排泄物もどうにかしないとならない。

だが、そこはやはりユートピアである。排泄が終わると、地面がパクリと割れて、きたないものを呑み込んでくれる。人が手を汚して汚物を処理する必要がないそうだ。(安永壽延『日本のユートピア思想』)

ユートピアの水洗便所?

まだミロクの世とはいえない今日の社会でも、この民衆の夢だけは水洗トイレが実現してくれたように見える。だが、かつての民衆の希望も、ただきたないものを目に見えぬところに消し去ってほしいというものであったのか、自分は疑問に思うのである。

これは自分の想像だが、人肥を用いた日本では、この水洗トイレットに近く見えるものは、今日のトイレットとはちょっと違った意味があったのはないかと思う。ミロクの世でも人はまだ食わねばならぬから、田畑を耕さなけなければならない。ただ、種さえ撒いておけば、大した世話をしなくてもひとりでに育って、一つの種が何十倍、何百倍にもなって返ってくるらしい。

だから、ミロク式トイレはトイレじゃなくて、人の手を借りずに田畑の方に養分を移す肥料運搬メカニズムとして想像されたのではないかと思う。そうなれば、肥桶をかつぐおぼこ娘や若妻の髪に柳田国男のいうところの「天下最悪の香水」が振りかかることもない。ミロクの世のありがたさもまたひとしおである。

尽きない力

肥料運搬と書いたけど、これはちょっと時代錯誤的である。むしろ、エネルギー循環システムと呼んだほうがよいかもしれない。古代日本の自然観にも、生命力、生産力のようなものがぐるぐる循環して宇宙を生命で満たしているといった考えがあったようである。一説によると、これは「ケ」と呼ばれた。ハレとケの「ケ」であるし、「気」、つまりエネルギーみたいな実体のない力にも通ずる。

この「ケ」が土から作物、作物から人間、また人間から土といったように循環していく。この循環を通じて、有機的な生命が生まれ育まれる。環境さえ整えば有機的な生命はいくらでも増殖するから、循環がうまくいっていると、人でも作物でも動物でもどんどん増えていく。それが民衆が想像した「豊かさ」というものであったのではないか。

そういえば、どこであったか忘れたが、柳田が次のようなことを書いていた。お湯にざぶんと体ごとを浸かるような風呂は近世のものである。それにもかかわらず、昔から日本人は温泉が好きであった。では何をするかというと「かけ湯」であろう。つまり、桶で湯を汲んで何度も体に浴びせたのであろう。今日の感覚だと、浸からないのではせっかくの温泉の楽しみも割引されそうに思えるが、湯がどこからともなく湧いてきて、「汲んでも汲んでも尽きぬ」という点に昔の人にとっての温泉の冥利があったらしい。

この「どんどん増える」とか「汲んでも汲んでも尽きぬ」というのが、民衆の待ち望んだユートピアの一つの特徴のようである。何かと不足がちの世に生きる配慮から解放されて、食べ物なり湯なりを思う存分に楽しみたい。ミロクの世が私有財産のない共産的コミューンとして想像されるのも、別に民衆が社会主義者であったからではない。ものがどんどん湧いて出るような世の中では、自分のものを囲い込んでケチケチする意味がないのである。

生命の流れを止めるケチ

却ってケチケチすることがマイナスになるとも考えられたのではないか。ものがどんどん増えるのは「ケ」の循環がうまく行っているためであるとすると、この「ケ」を循環から引き抜いてどこかに貯蔵したりしてはならぬのである。自然からとった分の「ケ」はまた自然の循環過程に戻さないとならない。この循環には天だかどこかにおられる、日光と雨の恵みをもたらす神さまも含まれているらしい。収穫後に祝われる祭において、人も神も盛大に飲んだり食ったりするのは、この「ケ」の循環の一部であったと思われる。

これもどこで読んだか忘れたが、北米の先住民の風習にも「ポトラッチ」と呼ばれるものがある。自分が必要とする以上の財をなした場合、一族郎党を招いてその余剰を無償で分け与える。それでも消費し切れないものは川に投げ捨てたりする。その背景には、その年の生産物はため込まずにぜんぶその年のうちに費やさないとならないという考えがあったのではないか。そうしないと、たぶん次の年の生産が落ちるのである。

日本でも「吝嗇」、つまりケチは何よりも嫌われた。長者と呼ばれるような者は気前がよくないとならぬのである。貧乏人の妬みもあるのだろうが、一つにはモノをため込みすぎると「ケ」の循環が阻害されて、宇宙全体の生命力・生産力が縮小するという考えがもとはあったのではないだろうかと思う。

指導者とは神に愛される者

この「長者」というのも今日では昔話の登場人物で、ただの物持ちだと理解されているが、もともとは政治指導者でもあった。経済力があるから政治力もあるのであるが、その正当性の根拠としては別の理由も考えられる。

長者が物持ちなのは、彼のところにものが入っていくと、それが何倍にも何十倍にも増えて出てくるからである。つまり、彼は貨殖が上手なのであって、それは神から愛されているがためである。つまり、彼の宇宙的な貨殖能力のために尊ばれるのであり、彼自身の富を蓄える能力が彼を指導者とするのではない。この信仰があったから、長者は我利我利亡者になり切れなかったのではないか。

ホメロスの『オデュッセイア』でも、夫の不在をいいことに妻ペネロペに求婚しにくる男たちに、長者オデュッセウスの財産が食いつぶされていく。嫌であれば追い出せばよいのにと思うのだが、客人は酒とご馳走でもてなさないとならない義務があるらしく、オデュッセウスの不在中、その屋敷では毎晩宴会が続くのである。

ここでもケチは領主にとって致命的な欠点として忌み嫌われている。もちろん、この恥知らずな連中は神聖な義務を悪用しているのであって、最後は帰還したオデュッセウスと彼を守る神によって天誅を下される。だが、分っていながらも拒めないくらい、長者は鷹揚でなければならなかったのである。

どのように選出されようとも、指導者にはこうした資質が期待されたのである。今日の指導者にもやはり同様な期待がかけられるから、リーダーシップに関わる民衆心理は近代以前からあまり変わってないのかもしれない。

古きよき未来

しかし、この「汲めども汲めども尽きぬ」というミロクの世への願望はどこから来たのであろう。あのトイレの話からいっても坊主どもに教えられたわけではなさそうだ。むしろ、仏教の方が民衆の願望を教えに取り込んだのである。

自分の想像では、一つは新しい土地を開墾した頃の記憶の伝承があったのではないだろうか。開墾は苦しい事業だが、ひとたび土地が開かれて種がまかれれば、作物はどんどんと育つ。作物が増えれば、人間もまた増える。その増えた人間をまた働かせれば、さらに作物が増える。そうなれば、鳥も増えれば、虫も増える。ネズミも増えれば、牛馬も増えるし、犬猫も増える。つまり、なにもかもが増えていく。増えていいものばかりではないが、土地が栄えるというのはそうした状態である。そうやって土地の生産性の限界に達するまでは拡大再生産が続く。

しかし、人口増加が生産性に追いついてしまうと、単純再生産となり、その段階も越えると一人当たりでみるとマイナス成長に陥る。その兆しが見えるようになると、囲い込みが始まるから、私有財産ができ、物持ちと無産階級が生じる。

それでも、周囲に開墾可能な土地があるかぎりは、どんどんと植民を出して行けばよいのだが、容易に開墾可能な土地が尽きてしまうと、後は戦争でもして人の土地を奪わないとならなくなる。そうして人気も悪くなり、共同体内外で人々は互いに相争うようになる。こうして桃源郷が失われたときに、その黄金時代の記憶がユートピアへの願望に転じ、今日に至るまで民衆の心に残っているのではないだろうか。

そうであると、ユートピアの原型は、農業革命によって一時的に現出した黄金時代、「どんどん増えて」「汲めども汲めども尽きな」かった過去の記憶であるのかもしれない。

食べてもなくならないおやつ

そうかと思うと、今日の資本主義でも、資本というものがどんどんと増殖していくようにイメージされている。まるでさざれ石が巌(いわお)に成長するみたいに、資本もまた自己増殖するということが譬喩ではなしに科学的な事実として受けいれられているのから、考えてみると可笑しいが、無限の拡大再生産というユートピア願望に沿った考えであったのかもしれない。

そういえば、死蔵された財は何も生まないが、生産過程に投げ込まれると資本となり増殖すると考えられているから、なんだか「ケ」にも似ている。ここでもまたケチは嫌われる。

してみると、資本主義などというのも元は一つのユートピアであったのかもしれない。「汲めども汲めども尽きぬ」という夢に突きうごかされた千年王国運動であったかもしれない。

しかし、その夢の王国も実現に至ると、水洗トイレ同様、つまらん現実になる。無限の拡大再生産には実は限界があるということに気づき始めた今日、それはもう過去に属する黄金時代となりつつあるのかもしれない。ユートピアが現実に近づきすぎたがゆえにわれらの夢から遠ざかるという逆説なのであるが、それがまたユートピア思想の批判力を刷新する力にもなる。

食べても食べてもなくならいおやつを望む子供のようなたわいのない夢が、案外人類の歴史を動かしてきた隠された願望であったかもしれない。だから、このユートピアを否定するのが大人であり現実的であるということになるが、この幼稚な願望をまったく失ってしまうと、今自分たちがやっていることさえ無意味になる。現世を否定して、彼岸での救いに慰めを見いだすしかなくなる。人間というものは妙な動物である。

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