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知性と教養は陰謀論を根絶できるか

悪に支配される世界

このごろ陰謀論という言葉をよく耳にしますね。世の中が悪いのは、どこか見えないところで悪の力が働いているからである。そのような主張ですね。その悪い力のエージェントは多種多様(特定の少数民族・宗派、外国の大資本、影の国家、等々)なんですが、善男善女の不幸をなんとも思わないよこしまな人々が世界を支配しようとしている、というようなことになっています。

こんな大胆な説をたいした根拠もなしにごり押ししたりしますから、良識のある人は陰謀論を信じるのはバカの証拠みたいに思っています。頭が悪くて、偏見や迷信にたいして抵抗力のない人だけが、こんなものにひっかかる。そう考えられています。そんなものが身内ネタの枠から溢れ出て、現実の政治を動かすようなことになっていますから、政治の劣化とも結びつけられて、民主制への批判にもつながります。「おバカな大衆に政治参加を許すから、荒唐無稽な陰謀論が公論を支配するようになるんだ」という批判ですね。

でありますから、だいたい陰謀論批判においては、人間の愚かさを嘆いてみせて、その上で教育の必要を繰り返すようなジェスチャーが伴う。そうでなければ、人間を生まれつきの善人族、悪人族、愚人族の三人種に分断してしまうようなことになる。そういう批判をする人は、自分は陰謀論には免疫がある善人賢者だと信じている。自分もまたその一人でした。

ところが、いろいろと勉強してみると、「陰謀論というのは愚鈍な民しか信じないものである」という前提が少し怪しいものなんです。たしかに、「宗教は人民のアヘン」(マルクス)であって、陰謀論は世俗化した人民の宗教であるという一面がなくもない。いまだにひとが宗教なりその代替品を求めるのは、まだ近代的な知性や教養が不足しているからである。そういう側面も一概に否定できないんですが、それではどういう知性や教養が必要なのかという点になると、どうも曖昧な答えしか返ってこない。そして知性や教養があると自負するひとびともまた、陰謀論と無縁ではないんですね。

マルクスの「アヘン」

一例を挙げると、ほかでもない「宗教とはアヘンである」と喝破したマルクス自身が、陰謀論に囚われたことがあるようなんです。当時の英首相パーマストンがロシアのスパイであるという主張を執拗に公けにするだけでなく、ホイッグ党が百年にもわたってロシアに買収されてきたという奇矯な非難をも、図書館の文献から掘り起こしてきました。エンゲルスら友人がいくらいさめても耳を貸さなかった。そうやって大陸から追われた自分に自由を許していた英国政府与党を批判しつつ、大陸の警察が潜り込ませた目前の間諜などには盲目であったりしたらしいんです(ジョナサン・スパーバー『マルクス――ある十九世紀人の生涯』)。

当時のヨーロッパは反動の時代で、リベラルやナショナリストによる政治参加の要求を、各国の政府が協力して弾圧しておりました。特にロシアのツァーリがその首魁とみなされていました。ロンドンで惨めな亡命生活を送っていたマルクスは、クリミア戦争が再び革命への機運を高めてくれることを期待しました。それで反ロシア感情と戦争熱を煽ろうとしたのですが、そのために戦略的に陰謀論を利用したというよりも、自分でも信じてしまったらしいんです。

マルクスの知性や教養を疑う者はいないでしょうから、陰謀論というのは必ずしも知性や教養で防止できるものではないようなんですね。「正しい」思想でもないようです。かえって自分の思想の正しさを求めるがゆえに、それを確認してくれるような事実を探し求めてしまいます。それが陰謀論への誘惑を生むんですね。

人々が思想に求めるのは、自分が直面する世界を理解可能なように説明し、なおかつ自分の希望を殺さずに生かしてくれることです。四八年革命の失敗を説明し、しかし近い将来に革命が起こることを否定しないような思想を求めるマルクスの願望が、中期のマルクスの理論形成を規定したんですが、陰謀論もそのおまけであったということらしいです。

マルクスのような知識人、教養人でさえ陰謀論に対する免疫がないとなると、ぼくら凡人については何をかいわんやであります。たしかに、陰謀論を信じるか否かは、学歴資本の多寡と相関関係があるように見えます。ただ、観察しているかぎりでは、その関係はどうやら一筋縄ではいかない。というのも、高学歴の人には高学歴の人向けの陰謀論のようなものがちゃんとある。

ですが、そうであるとするならば、いくら教育水準を高めても、陰謀論への需要はなくならないということになる。むしろ、人々の教育水準が上がっていくと、もっと洗練された陰謀論を生み出していくはずである。これはあながち論理的な推論に止まりません。人類の歴史自体がそういう実例を多く提供してくれます。

やっぱり人間は根っこではバカだとかワルだとか悪口を言いたくなるんですが、そうとばかりも言えないところがあります。陰謀論なんてものを考え出して自分で信じてしまうのも、人間がバカやワルになり切れないがゆえである、という一面があるんではないかと思うんですね。

「私」を持ちこたえる術

以前もお話したことがありますが、実は陰謀論の世界は、呪術的世界というものに似ています。民族学とか文化人類学などというものが「未開」の世界に見出したものですね。まだ呪術を信じていた人々が生きていた世界です。目に見える災厄は、実は見えないところで働く力がもたらすものであり、その力を人間が認識し、統御することによって悪に対抗できる。そう信じられている。

今では、呪術は自然の脅威に圧倒された精神の生み出した迷信やら妄想と思われています。ところが、エルネスト・デ・マルティーノというイタリアの民族学者が書いた『呪術的世界』などというものを読むと、呪術には実は技術や医療といった一面があって、自然を理解して統御する文明の第一歩でもあるようなんですね。

呪術的世界に生きる人間においては、まだ世界と世界に対峙する「私」が明瞭に分離していません。ですから、環境に圧倒された人間の自我(「私」)は容易に解体してしまいます。自我が解体すると、自分が自分のままではいられない。その場その場の状況において外からやってくる力によって振り回される。つまり自己同一性(アイデンティティ)が失われる。さっきまでの自分が、状況が変わるところりと他の人間に変わってしまう。あのときお前はこう言ったじゃないか、ああやったじゃないか、と言われても、さきの自分もいまの自分もどっちも本当の自分としか思えないから、「あのときはあのときだ」とうそぶくしかない。以前に紹介した漱石の『坑夫』で扱われたテーマです。

デ・マルティーノによると、自己同一性が自明のものとなり、さまざまな制度によって保護されている今日では、「私」の喪失はある種の堕落であり罪であると思われるようになったんですが(たとえばハイデガーの現存在の頽落)、かつてはこれがむずかしい課題であった。暗示にかかりやすい人がもっと多かったようなんですね。

そういう人間の身体は、外からやってきた何か別のものに簡単に乗っ取られてしまう。あるいは、魂が自分の肉体から奪われたり、外に逃げ去ったりする。そうなると、ひとはその場その場で自分の注意を惹きつけるものを機械的に模倣するようになる。いわゆる忘我や憑依といったような状態のようになるわけです。

呪術というのは、この忘我・憑依状態そのものではなくて、この状態を克服して自我(デ・マルティーノの用語では「現在意識」)を回復・維持するために考案された。外からやってくる悪の力を自らのものとしつつも、なおも力に吞み込まれずに自分を保つ術なんですね。

陰謀論の思想

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