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家父長たちの腹芸

和田傳(わだ・でん、わだ・つとう、1900-1985)という厚木出身の農民小説作家がいて、『家父長』という作品を書いている。

地方の大地主の話なんていうと、ちっとでも進歩的な信条をもつ人はまずよい顔はすまい。貧民を搾取するがめついプロト資本家、若い人に理解のない固陋頑迷の徒、女をモノのように扱う性差別主義者。近代史においては保守反動の権化みたいに描かれることばかりが多い。

この小説の主人公である平左衛門もそうした田舎の旧家の主人である。いまどきそんな小説を読む意味があるのだろうか、といぶかる向きが多いだろうが、自分は多くを学んだ。おそらくそんなものを読んでやろうという人は少ないであろうから、ここで自分の学んだことを簡単に紹介しておくのも無意味ではあるまい。

家父長の悲哀

さて、『家父長』では、平左衛門がイエの存続のためにあらゆる苦悩に耐え忍び、困難を乗り越えていくさまが描かれている。最初の苦難はこうである。長男に嫁をとり初孫の女の子の誕生を喜んだかと思うと、その嫁が急死してしまう。そこで後妻をという話になるが、既に家督相続権がある連れ子のいる男のところに来る嫁などいない。そこで生れたばかりの初孫を廃嫡して、里子に出してしまう。前の嫁などなかったことにしてしまう。

そうしてめでたく新しい嫁が来て、また女の子が生れるが、今度はその父親である長男が急死する。突然跡取りを失った平左衛門は、もう帰って来るなと「竹箒で掃き出すように片付けた」三男を呼び戻す。しかし、三男に嫁をとるのに、今度は長男の嫁と孫が邪魔だ。そこで嫁は実家に送り返され、孫はまたしても親から引き離され里子に出される。再び都合の悪い過去は消し去られる。

これだけ読むと血も涙もない冷酷な人間に見える。だが平左衛門は、「さちよ、さちよ」「きぬよ、きぬよ」と二人の嫁を眼に入れても痛くないほど可愛がった。孫娘が親と引き離されるのを心底悲しんだ。しかし家父長という立場が彼にそうした感傷に浸ることを許さないのである。

里子に出された初孫に会いたくて仕方がないくせに、顔を見れば情が移るとして、かかあにばかり様子を見に行かせる。あれだけ可愛がった長男の後妻が次の嫁ぎ先で死の床にあると聞いて、その幼子を連れて行く。だが、子供だけ中に入れて、自分はもはや何の縁もない他人であるとして頑として会おうとしない。

旧家の長男に生れた彼は、父が逝去した後、三十二歳の若さで家を継ぎ、以来家長として生きている。彼にとっては、旧家の長男というのは特権ではない。逃れられない運命である。一種の呪いと言ってもいい。イエと一体化し、イエとして考え、家父長としての仮面をかぶりつづけなければならない。骨肉を分けた者に対してさえ愛情を表明することが許されない。

小作人たちには酒をふるまうが、自身は一滴も飲まない。貧乏人は刈入れ後に御法度である新米をこっそり炊いて食べるが、地主の彼は小作人の納めた古い端米ばかりを食っていて、新米など口に入れたことがない。六十になるまで花見にも行ったことがない。今風にいうと、「自分らしく生きる」という生き方からもっとも遠かった人が家父長であった。

腹芸とホンネ・タテマエ

それでも「ホンネ」は肚の中にしまって、「タテマエ」だけを口にしなければならない。悩みがあっても、イエやムラには同格の友人はなく、独りでじっと耐えないとならない。だから、平左衛門は多くを語らないし、滅多に笑わない。家長となって以来、一生を通じてほとんど閻魔顔で通している。

家長の仮面を外し、大黒顔で笑うようになったのは、息子に嫁を迎えたとき、そして孫娘の一人と一緒に過ごせるようになったときだけだ。そうして、イプセン『野鴨』のギーナのように、過ぎ去ったことは過ぎ去ったこととして忘れようとする。感傷的な気分に浸ることを自分に許さない。

唯一相談相手になれるのは、ほかのムラの旧家の主人たちである。それぞれに重責を負った身として、家父長たちは互いの悩みと苦労を知り尽くしている。だから、できるときには助け舟を出す。

平左衛門の妹しげのは、江戸の奉公先で未婚のまま身ごもった。その私生児を平左衛門夫婦は福司と名づけ、自らの子として引き取った。そうやってしげのは別の村の治平という本百姓の家に嫁ぐことができた。しかし、実の親子はこれから一生、叔母・甥として生きなければならない。しげのも過去をふり切ってこれを受け入れる。だが、子供ができる前に嫁いだ先の長男は沼で溺死してしまう。跡取りを失った治平は養子をとらなければならない。だが、治平はしげのを何よりもかわいがっている。

この苦境を察した親類の旦那たちは、一つのトリックを思いつく。平左衛門が育てているしげのの私生児を治平の跡取りとして養子縁組しようというのだ。しかも、誰もこれをはっきりとは口にしない。ただ、それとなく治平に仄めかすだけだ。治平はそれに気づくが、また余計なことは何も言わず、ただしげのに福司を養子にとろうと言うだけである。こうしてしげのと福司は母子として暮らせるようになる。しかし、誰も本当のことは口にしない。福司にもそんなことは知らされない。すべてはいわゆる「腹芸」で以心伝心される。

後に平左衛門は治平が女中との間にこさえた娘がいることを知る。家を守るために、治平は女中に田畑を与えて外に出し、可愛い娘とは道ですれ違っても気付きもしない赤の他人となっていた。そして、血のつながらない福司を養嗣子に迎えた。この温情に報いるために、平左衛門は娘を福司の嫁にするよう画策する。これも形式上は単なる縁組としてであり、その実情はみんな知りながらも決して口にはしない。タテマエは貫かれ、ホンネは腹芸によって伝えられる。

世論の力

家長たちがタテマエにこだわるのは、「世論」の力を恐れるからである。世論といっても今の世論調査の世論じゃない。世間で広く受け入れられた常識とか不文律に基づく第三者の意見である。たとえ人情のためであろうが、世間はこの法が破られることを放ってはおかない。

この世論の力を示すようなエピソードが語られている。平左衛門の知り合いの旧家の弟、治郎はある家の長女の聟に「片付けられた」。しかし、財布の紐は家の主人からその妻、そして妻が死ぬとなんと長女へと引き継がれ、聟は五十前にしてまだ下男のような扱いを受けている。かかあはカカ座に座っているのに、治郎はいまだに主人の席である横座に坐ることができない。「長女に聟が来たら座らせましょう」という妻女に、ある旦那はこう言い渡す。

「そりゃああべこべだ。その聟は、治郎が横座に坐らない限り⋯⋯その聟は来ねえぞ。来たらわしがの首をやる」

世論の審判はこうなのである。世間の常識では聟が主人となるべき筋である。その筋を通さない家になぞ、誰も聟など出さない。そうやって掟破りは罰せられる。この件があって以来、治郎は横座に座ることになり、名実ともにイエの主人となった。世論が勝ったのである。

しかし、この顚末もどうも前代の主人の腹芸であった可能性がある。前代の主人もまた聟であった。その主人は存命中にときどき治郎を呼んで、五十銭という若衆にやるような小遣いをやる。しかし、聟は実は裏では米相場の投機でしこたま稼いでいる。そして、主人もそれを知っている。知っているのに、知らないふりをしてわざとはした金を小遣いとしてやるのである。受け取る方もまたそれを知りつつありがたく頂戴しているふりをする。米相場の稼ぎのことなどお互い口にもしない。

腹芸とかタテマエ・ホンネというのは今日ではあまり印象がよくないのだが、どうも元は世論が認める掟への形式的な服従を貫く必要と、人情が要請するところの例外措置を分けて考えるということらしい。

世間も必ずしも人情がないわけではない。でも、掟は守ってもらわないと困る。見かけ上形式を整えてもらえれば、あとは見て見ぬふりをする。これがタテマエとホンネなのであって、言ってみれば公の法と私の事情を区別しながら、どちらも排除しない知恵である。アンティゴネーとクレオンの衝突は避けられ、悲劇は表面から見えなくなる。ただしホンネは口にされないから、腹芸で伝える必要がある。

日本型リーダーシップ

書かれた時期もあってか、登場人物ができすぎた人たちばかりで、ちょっと美化されすぎ感は否めない。だけど、母にこの話をしたら、そう遠くない昔には、そういう人たちがまだいたようなことを言う。

彼女の祖父もそのような家父長の顔を持っていたらしい。であるのに、毎朝どこかの子供が納豆を売りに来るのを、玄関前でお金を手に握って待っていたりする。会ってはいけない子や孫をひと目見たいがために、偶然を装って家の周りをぐるぐる回っているような人も実際いたらしい。これを見かけた人も事情を察して、タテマエさえ破られなければ、見て見ぬふりをする。

もうこんな腹芸を理解する人間も少なくなっただろうが、元来、日本型リーダーシップはイエの倫理と深く結びついていたことがよくわかる。美化はされてはいるが、柳田国男の掘り起こそうとした日本土着の人生観(今日、官邸周辺から聞こえてくるようなやつとはまったく異質であることに注意せよ)や、村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎のいうところのイエ社会の論理を内側から理解する理念型としては役立つ。

家父長たちが保守反動であったとしたら、それは必ずしも悪人であったためではない。彼らもまた制度の犠牲者であった。イエとは我々の理解するところの「家族」ではなく、政治組織、経済組織でもあったのであり、家長はまたその指導者でもあった。指導者として私情を優先するわけにはいかなかった。これはまた、現代の家父長たち、つまり企業の経営者にもある程度はいえたのである。そして、多くの日本人にも、このような指導者を期待する心性がまだ残っている。

こんなリーダーシップが果して近代デモクラシーやグローバル経済とうまいこと調和できるか怪しい話である。少なくとも政治においては、こうした伝統が悪用される嫌いが皆無ではなかったと言い得る。だが、村上・公文・佐藤ら近代論者たちは、産業社会においてこのイエ制度は有利に働いたと主張している(『文明としてのイエ社会』)。これが近代化を正統化するために伝統を動員するネオ伝統主義などと批判されるのだが、安直なイデオロギー批判で済ませてよい話かどうか自分はまだ決めかねている。先日も『文明としてのイエ社会』を読み直したが、いろいろと示唆が多い書物である。

そうは言っても、村上たちもこのイエ社会の将来には楽観していない。過去の遺物がたまたま経済発展の一段階にうまく適合したという歴史の狡知みたいな話なのである。そして今日のさまざまな意味で自由化した社会においては、イエ社会も家父長制、腹芸、ホンネとタテマエなどというものといっしょに、真に過去の遺物になりつつあるようである。今日のフットワークの軽い経営者世代などから見れば、こんな鈍重な家父長的経営者はあまりに古臭い因習にとらわれた存在にしか見えないであろう。

この変化は歓迎されるべきことであるかもしれないが、少なくともなぜそんな制度や文化が世論の支持を得ていたかということだけは知っておいた方がよい。世の中、一直線に物事がよくなっていくということはあまりない。ひとつ改善があると、それに伴って弊害も生まれ得る。イエ制度や家父長制とともに何が失われたのか考えてみる余地もある。

イエという制度も、理論上はともかく、その実践としては必ずしも非合理なものでも非人間的なものでもなかったかもしれない。少なくとも、人の群れを統制し、永く繁栄させつつ、個人の事情もできるだけ考慮するだけの複雑さ、柔軟さを備えていた。弊害が目に余る面もあったが、そこから学べることはたくさんある。今さらイエの時代を復旧するわけにもいかんが、グローバル・スタンダードだけ知ってれば他は知らんでもよろしいという竹中平蔵式も考えものである。

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