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西と東(東洋人の劣等感を乗り越えるための教養 その一)

近代というのは「西」で発祥して「東」に伝播したと言われる。この場合、「西」とは西洋、特にイギリス(産業革命)とフランス(フランス革命)を中心とする北西ヨーロッパ諸国、「東」とは中近東から極東に至るまでの「アジア」と呼ばれる広大な地域を指す。このせいで、我々近代人の地政学的な空間感覚は、「西」を起点としているものが多い。地図では真ん中にある日本がなぜ「極東」と呼ばれるのが解せなかった子どもは自分ばかりではないはずだ。それは西欧を起点にした見方なのである

「西」のなかの「東」

だが、「西」というのは相対的なものだから、その中にも段階・格差がある。今のスペイン、イタリア、ギリシャといった南欧地域、そして中欧、東欧諸国は、異教徒/異民族に侵略/占領された歴史を持つ相対的な「南」や「東」なのである。ドイツでさえ西欧では辺境であった。

ロシアという国も、中国や日本と比べれば「西」に属するのであるが、西ヨーロッパにとっては「東」、つまりアジア的な帝国と見なされていた。ソ連邦に対する反感は共産主義に対するものもあるが、同時にツァーリスト・ロシアに対する偏見の延長線上にもある。今日でも、プーチン・ロシアにいわゆる西洋文明とは異質なものを感じるヨーロッパ人は多い。

でも、「西」の人々の自己理解の形成に最も重要な役割を果たした「他者」というのは近東のイスラム教徒であり、特に最後のイスラム帝国であったオスマン帝国であった。今日では、ヨーロッパにおいては宗教と政治が分離されたことになっているのであるが、「テロに対する戦い」においてもキリスト教文明対イスラム文明の対立というイメージは根強い。

病的、退廃的な「東」

前回は「北」の抱く願望に従って「南」が作り変えられていったことについて書いた。

「東」にも似たようなことが言える。それは通常「オリエンタリズム」の名で知られている。

いちばん単純な単系発展論(世界の文化的多様性は、西洋文明という普遍なものに向かう一本の道すじの発展段階を反映したにすぎないという見方)においては、「西」が「現在」に属するのに対して、「東」は「南」と同様「過去」に属する。「西」の人々は「東」に自らがとうの昔に乗り越えた姿を見いだした。時間軸上では、「東」は「南」と「西北」の中間段階に位置づけられたのである。

だが、もう少し洗練された見方もある。「南」と違って「東」というのはそれなりに発達した「文明」をもっていたので、「南」とはちがう。大航海時代に「西」が「東」に進出した際の両者の関係は対等、もしくはそれ以下であった。ヴォルテールあたりまでは、中国の皇帝を啓蒙的専制君主の模範として、むしろヨーロッパの停滞を批判する視点が見られる。

でも、18世紀末から19世紀にかけて次第に経済/軍事面での覇権を確立していった「西」は、逆に「東」を「停滞」の空間として定義するようになる。これは「西」が「進歩」の空間であるのに対応している。この進歩的な性格はアジア的専制に対するヨーロッパ的自由の賜物であるという見方が、イギリスの政治発展を模範としたモンテスキューあたりから出てくる。

人間に例えて言えば、「西」は成熟した「大人」だし、「東」は未熟な「子ども」なのだが、どういうわけだがその成長が中途で止まってしまった老人子どもなのである。「南」が単純に自然児なのに対して、ちょっと病的、退廃的な要素が入ってくる。そして、その場合は、「若い」「まだ精力みなぎる」真の青年であるヨーロッパというのが老いたアジアに対置される。

だが、いずれにせよ、子どもは大人の指導のもとに成長するしかない。ヨーロッパを中心とする地理空間の感覚は、西欧列強の帝国主義とも密接に関わっている。そんなイメージを押し付けられた「東」の人々にとっての選択肢は二つ。西洋化して独立を保つか、遅れた地域として「西」の植民地や属領となるか。日本はいち早く前者を選択して、「西」の人々に進歩的な空間に属する国として受け入れられたわけだ。

日本の「東」

一方的なイメージを押し付けられて迷惑した国の一つが日本なのであるが、「西」の一員になりたい一心で、今度は日本自身が自らの「東」を作り上げる。「東洋」というのがこれで、アジアが「停滞」「過去」「子ども」として扱われるようになるのだ。実際には日本の西に位置する地域が「東洋」と呼ばれ、西洋に対する「東洋」と同じ役割を日本の自己理解で果たすようになる。

つまり、成長が中途で止まった老人子どもとしてアジアを見る視点が、日本人のなかにも広まっていく。それに対して、日本は「東」では例外的に「進歩」的な人びとであるという自負が生まれる。その「男らしい」日本が「女々しい」アジアの人を指導して、西洋列強から解放してやる。これが日本の国民的使命として捉えられた。必ずしも教養のない大衆のナショナリズムだけの問題ではない。柳田国男のように相当に慎重な知識人のアジア観などにも垣間見られる。今日のわれらにもまだこうしたアジア観が根強く残っている。

そういうわけで、日本人が朝鮮や中国の人々に向ける視線と「西洋」が「東洋」に向ける視線には共通点がある。「西」でも「東」でも、帝国主義において数々の野蛮な行為が「文明」の名の下の行われるのは偶然ではない。

脱亜入欧で「東」から「西」へ転向をはかった日本は、今度は一転してアジアの盟主を自称して戦争を戦うはめになる。敗戦後は米国の指導のもと、再び未熟な子どもとして「文明」の意味を再学習させられた上で、準「西」の一員(共産圏としての「東」や途上国としての「南」に対して)として認められた。でも、冷戦が終了してしまった今日、日本の立ち位置というのはやや不安定である。「西」からはちょっと異質な国として見られるし、「東」からは身内を踏み台にして成り上がった裏切り者みたいに思われている。

「西」の裏返しとしての「東」

今日では、「西」における「東」(中近東を除く)のイメージはポジティブなものが多くなった。でも、やっぱり西の「物質」文明に対して東の「精神」文明というステレオタイプの裏には、「西」と「東」を非対称として捉える見方が根強く残っている。以前の「病的な老人子ども」な東洋のイメージが逆転して、また老いた賢者の役割を押しつけられたりしてる。

また、アジアのエスニック料理やヨガの流行なんかを見ると、アジア=健康的という図式が垣間見え、南北関係同様に、東西関係にも近代文明が抑圧してきた肉体、そしてそれに伴う精神の病という問題が絡んでいるとも言えそうである。

ポジティブにせよネガティブにせよ、やはり西洋近代の陰画として「東」がイメージされ続けていることになる。精神を病みがちな西洋近代という時代に生きる孤独な自我の避難所みたいなものである。だが、今日のアジアにも、そんな病んだ精神が同じくらいたくさんあるということに気づいてない。

ややこしいことに、この「西」が作り上げた「東」のイメージが再輸入されて、われわれの自己イメージの一部に組み込まれていたりする。「長い伝統を持つ」や「若い」という矛盾したイメージが「東」の自己理解にも混在している。「年老いた子ども」というイメージは、むしろ今のアジア人の方によく当てはまりそうである。やっぱりアイデンティティというのは他者との関係においてつくられるものなのである。

非西洋地域では、知識人という存在自体がこうした構造の外ではなく内に属している。自文明の知的伝統ではなく西洋起源の知的伝統に同化したものが近代の知識人である。そうして、知識人は世界の知の階層構造の上位を占めることになっている。これが国内における知識人の社会的優位性を保証する。知識人が一般人よりエラいのはこのせいである。

むろん、西欧でも知識人と非知識人の区別には階級性があるが、非西洋地域ではこれに文明論的な対立が加わる。西洋起源の政治理論や比較政治学の盲点となっている西洋派と国粋派の対立軸である。近代知識人が西洋の知的伝統と自己同一化した存在であるかぎりにおいて、西洋の権威を楯に上からの近代化を強行する社会においては、リベラルな知識人というのは党派的に中立ではありえない。生粋の西欧知識人が知らない悩みなのであるが、彼らを師匠として頼む非西洋知識人が往々にして見落とす問題である。

いわゆる進歩系知識人だけが無意識のオリエンタリズムの被害者なのではない。非西洋地域の保守もやはり、この東西観の影響を受けている。端的にいうと、世知に長けた大人の保守主義が弱い。そうではなくて自分に心地よい環境を誰かに守ってほしいという「子どもの保守主義」ばかりが保守の看板を恣にしてる。

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