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ロックな老い方

割引あり

ヘッダー画像:The Old Guitarist, by Pablo Picasso - The Art Institute of Chicago and jacquelinemhadel.com, Fair use (Old-50), https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=31832131

老いの初体験

近年、自分のヒーローであったロック・ミュージシャンたちの訃報を目にすることが増えてる。そうかと思うとまだ健在ぶりを示してくれる御大らの動画なんかも目にするが、その見た目の老け具合いにショックを受ける。老いてなお盛んな彼らを見て嬉しい反面、かつての英雄たちの老いらくの姿をあまり見たくないなという気持も抱かされる。ジミヘンやジャニスのように夭折することによって永遠の青年になった人々は、ある意味で幸福であったなという不謹慎なことさえ、ちらりと頭をよぎる。

自分は年齢的には80年代音楽が同時代だが、どういうわけか60年代の音楽から聴き始めて、70年代末に達したところで反転して50年代、40年代、30年代と遡っていった。だから、自分が主に聴いたロックは60年代からの第二世代とでも言えるような人々であるが(50年代のミュージシャンの訃報に対する自分の反応は、だいたい「この人まだ生きてたんだ」という驚きだった)、その第二世代が生きていればもう八十歳であるから、当然といえば当然である。

その当然がなぜ自分にそれほどのショックを与えるかというと、自分もまた老いたという事実に目を向けさせられるからではないかと思う。自分(たち)は永遠の青年であると思っていたのがやはり幻想であった、という現実に改めて向き合わされるからだ。ロックは老いた。そして自分もまた老いつつある。口ではそう認めつつも、これがなかなか直視しがたい現実であったんだな、ということに改めて気付かされる。

それもそのはずで、ロックは比較的若い文化であったから、これほどの老いをかつて経験したことがない。むろん、ロックもまた年を重ねるにつれて変化し、成長してきた。だから、壮年のロックみたいなものがある。たとえば、かつての若者が中年になった70年代には、AOR (Adult Oriented Rock)などというものが出てきた。もうわしらも小僧っこみたいにギター三本と太鼓でガチャガチャやってる歳じゃない。演る方にも聴く方にもそういう需要があったらしい。

それに、その後すぐにパンクが興隆したように(「ロックは死んだ」がその標語だった)、後進が育って世代交代が繰り返されて、それによってロックは何度も殺されて若返ってきた。80年代の商業ロックに対して90年代初頭のグランジが起こったのもそうだ。しかし、その裏では、時間は容赦なく若者の音楽をも老けさせてた。今日では若者自体のロック離れ進んでいて、ロック自体がおじさん、おばさんたちのジャンルに近くなりつつあるようだ。

どうやら、若者文化たるロックもまた老いを乗り越えられない。そりゃあ、ロック・ミュージシャンだって、その偶像性を剥ぎ取ってみればひとつの職業である。働けるうちは働いたっていい。「まだまだお盛んですね、とても○○歳には見えませんよ」と励ますこともできる。演る方も聴く方も、そうやって互いに励ましあってロックし続ければよい。

だが、反抗する若者の文化であったという事実が、ロックを老いと少し特殊な関係に置く。そういうちょっと円熟した達観とか礼節やポリコレみたいなものを、イライラした冷笑とまがまがしい嘲笑で笑い飛ばしてきたという来歴が、年をとったロックにブーメランになって戻ってくる。「若者だからってなめんな、お前ら年寄り連中にはぜったいにできないものがあるんだよ」という標語が、喉に刺さったトゲになって残る。

とりあえず反権威

であるから、果たして老いたロックはロックたりうるのか。そういう問いが可能である。ここでの問題は肉体的な老いにかぎられない。ミック・ジャガーが80歳にしてまだかくしゃくとしているのは結構だけど、問題はロックの精神にかかわる。「おじいちゃん、がんばってるね。いつまでも元気でね」などという励ましの声に、ロックはロックとして応えられるのか。それとも、やっぱり伝統芸能の一つみたいになってしまうのか。そういう問いである。

なんて言っても話が通じない人が増えたかもしれんから、敷衍するとこういうことである。いつだか大衆文化のなかで育った者にとって、大衆文化も生きた教養たりうるという話をしたが、自分にとってはロックこそがその教養たる大衆文化であった。だから、自分の精神にはロック文化から吸収されたものが根っこにあって、音楽の趣味を超えた影響を思考や態度に及ぼしている。とくに政治への最初の関心はロックを介してだったから、政治にたいする態度がそうだ。いかなる権威にもとりあえず中指を立ててみせるのも、考えてみるとロックから学んだものだ。なのに、自分のなかでは「うまいから食うもの」と「栄養があるから食うもの」の区別が自明視されていて、このことに長いこと気づかなかった。ロックはうまいから食う嗜好品で、自分の精神の栄養はどこか別のところから得てると思い込んでた。

それはあんたの主観でしょ。ロックも多様でいいし、人の好みもそれぞれ。そうかもしれないが、それでもロックの精神を動かす原理、これがないとロックとしては発展しえなかった中心みたいなものがあるとしたら、それは社会的には無力な若者が抱く焦燥感であり、その裏返しとしての若さの価値の誇張ではないかと思う(たぶんロックは、これをマイノリティの音楽であるブルーズから受け継いだ)。このどちらを欠いても、あのエネルギーを生み出せない。であるとすれば、達観した老人は、果たしてどこからこのエネルギーを得るのか。

しかし、考えてみれば、これは商業ベースで発展を遂げた芸術であるロックに、つねに付きまとっていた問題の一部でもある。客にまがまがしい嘲笑を浴びせながらも、歌い終わったあとは「毎度あり」と頭を下げる。「すべてはみなさまのおかげです」と、商人らしく一応あいさつしとく。ポリチカルにインコレクトな歌詞を歌いながらも、ポリチカル・コレクトネスにも配慮しないとならない。これも商売を傷つけない知恵だ。

聴き手の方もまた、微妙なバランス感覚を要求された。自分自身が傷つけられたり、自分であればぜったいに公言しないようなことが歌われたりする。他の人がやったらぜったいに赦せないようなことを、これがロックだからと大目に見るような、そういう態度がないと聴けないようなものが少なからずある。ジョン・レノンだって「イマジン」ばかり歌ってたわけじゃない。むしろ例外に近い。

例えば、自分がショックを受けたのを覚えているのは、ガンズ・アンド・ローゼズの「ワン・イン・ア・ミリオン」という曲。黒人、同性愛者、移民などに対する白人の若者の敵意むき出しの歌詞だった。他のバンド・メンバーは反対したらしいが(ちなみに、バンドのギタリストの一人は黒人の母をもつ)、アクセル・ローズは譲らなかったらしい。よく覚えてないけど、本人のことばによれば、恵まれない白人のヘテロな青年、「百万人のなかの一人」にしか過ぎない者の多くが感じているのに口にすると叩かれることを、それを承知であえて表現しなきゃいけない、ということであったと思う。

他のバンド・メンバーの懸念は道徳的なものもあるだろうけど、まずは商売への影響だったと思う。「お前の気持ちはわからんでもないけど、おれたちは客商売だぜ。やめとこうや」ということだったと思う。しかしだからこそ、アクセル・ローズはこだわったようなところがあるようだ。

これなぞはもうグレーゾーンを踏み出した事例のようで、米国でも多くの批判を集めた。だが、ここまでいかなくても、モーラリーにもポリチカリーにもインコレクトな歌詞がロックには溢れてる。道徳家の視点からは褒められたものじゃないが、文化としてのロックの生命力は、どうもこの「正しさ」を押しつける権威に対する反抗にある。ロックといえばかつてはサヨクっぽいものであったが、最近はウヨクっぽいロックが出てきてる。その先駆けとなった事件ではないかと思うんだが、ロックが変わったというより世の中が変わったとも言える。戦後のリベラリズムも体制内化して、保守的な政治家と並んでリベラル・エリートもまた権力者の側に名を連ねることになった。であるから、ロックの反抗精神の対象にもなった。

道化としてのロッカー

そういう反抗の精神がロックの生命であるから、「老いてもこんなにがんばってるから、引続き応援してね」というだけでは、ロックとして何か足りないような気がする。高齢化社会のひとつの模範にされてしまってはならん、という気にさせられる。この「老い」という宿命と、その「老い」の意味を決める権威に対して、ロックはどういう態度を取りうるのか。そういう問題があるように思う。

だが、ロックが年老いて、熱心なロック・ファンだった者がちょっと距離を置いて眺められるようになったとき、自分はひとつの発見をした。シェイクスピアを読んだときに、そこに登場する道化たちに既視感があった。どこかで見たことがあるような気がした。それがわからずに悶々としていたんだが、ある日、ひょいと思い至った。自分が若い頃熱心に読んでいたロックの歌詞である。ディランの叩きつけてくる言葉のつぶてとか、強者の傲慢にも弱者の卑屈にも等しく投げつけられるストーンズのまがまがしい笑いである。

どうやら英語圏文化においては、民衆劇における道化の伝統はひとつ、ロック文化に流れ込んだらしい。ロック文化のエネルギー源は若者の焦燥感であったかもしれないが、その技法には民衆文化における道化の伝統が残されてる(ただし、必ずしもイギリスの道化文化だけじゃなくて、ロックが影響を受けた黒人音楽にもこの道化の伝統が生きてた)。

民衆劇(そして、それを取り入れたシェイクスピア劇)においては、道化は舞台の上の虚構の世界と舞台下の観客席のあいだをとりもつ役割をする。舞台上の人物でありながら、直接観客に語りかける。韻を踏んだセリフで称えられる舞台上の理想や規範を、観客の日常言語に訳し換える。ただし直訳じゃない。民衆の言葉で繰り返されることで、舞台上の理想なり正しさなりが、なんだか滑稽なものになってしまう。ちょうどドン・キホーテの台詞を、サンチョが台無しにするようなかたちで。

であるから、たとえば「おじいさん、お元気でなによりですね。いつまでもお元気でいてくださいね」という「正しい」台詞があったら、道化は「お前に言われんでも、もう片足棺桶に突っ込んでるわい。そうでなきゃあ、お前さんの前で元気なふりなんぞするもんかい。どんなひでえ目にあわされるかわかったもんじゃねえからな」などと答えてしまう。老人が愛され大切にされるべきという規範的世界に対して、老人は使い古された無用の長物とされる現実にわざと触れる。つまり、お約束を破って、臭いものの蓋を開けてしまう。

こうすることにより理想は貶められるが、同時にまた、現実の至らなさも笑いの対象にされてる。その結果、あらゆる価値が冷笑的に相対化されてしまう。しかし、この冷笑は冷笑に止まらない。こうした「正しさ」の押し付けに対して、婉曲を強いられる弱者の立場から抗議が試みられてる。道化はたいがいこれを、自分の価値を過度に誇張することにより行なう(ブルーズなんかでは、これが呪術的な性的能力の誇示のようなかたちで表現されることが多い)。しかしまた、だからといって、自分を本気で神だと思ってるわけではない。妄想的に大げさな夜郎自大ぶりは、それ自体に自嘲が含まれてる。道化は所詮道化だから、誰もまともに受けとめない。そういう条件下でのみ正しくないことばを口にすることが許されている。そういう自覚がある。

シェイクスピアの時代の演劇は今日の演劇以上に客商売であるから、まずは観客を喜ばさないとならない。しかし、同時に、よい演劇はまた観客に何かを考えさせるきっかけを与えないとならない。演劇とは人を堕落させる娯楽にすぎないという清教徒たちの批判を受けて、シェイクスピアなどはとくにこれを意識していたように自分には思われる。説教壇からウエメセで語りかける説教者として語りかけていたんでは、楽しませながら教育するという目的は達せられない。だから阿呆と見なされる道化が持ち込まれる。これと同じような態度と技法が、ロック文化にも見られるんである。

先のガンズの「ワン・イン・ア・ミリオン」の例でさえ、この道化的要素がある。厳然とした差別感情があるのに、それを表現しないことが強いられてることによって、意図せずとも臭いものにふたがされている現状が暴露される。だからといって、ロックは所詮民衆娯楽であり、道化は所詮道化であるから、この事実によってすべてが上書きされてしまうわけでもない。ただ、世間体を度外視する道化の眼からは、そういう事実が見えるということの確認のみが要求される。(アクセル・ローズと彼の批判者との認識のずれの一つは、おそらく彼自身の立場の評価。一方はロックスターを社会的名士として見るけど、他方は一人の自由な道化としてしか見ていない)

だけども、その事実が冷笑的に傍観されてるわけでもない。「オレだってお前たちに追いつこうとしたさ。だけど、お前たちのいるところは高すぎ(てオレには届かねえんだ)」で歌は終わる。たぶん、日々を生きるだけで精いっぱいの民衆に無理解なリベラル・エリートに対する恨み言であるが、他のマイノリティにも理解可能な経験である。競争に敗れたマジョリティの成員たちもまた苦しむ弱者なのに、「マジョリティ」というラベルが貼られることによって、これが否定されてしまうわけである。これが暴露されることによって、かえって権威的な「正しさ」によって分断されてしまっている弱者同士の連帯の可能性さえ示される。

正しくないことが言える領域

興味深いことに、アクセル・ローズと他のバンド・メンバーたちは、この曲に関する意見の違いにもかかわらず、その後もいっしょに生きていけた。ガンズだけじゃない。ロス・アンジェルスや他の街の多くでは、そうやって多様な人びとが、「なんだ、あいつは」と心の底で思いながらも、いっしょに生活してる。公けの場ではダメであっても、ときにはこうやって腹を割って互いの差別感情さえ表現しあう機会もあるはずだ。むろん親兄弟の仇であればそうそう笑ってばかりもいられないだろうが、生活上の競争者であり協力者でもある人々は、下手すれば人種暴動が起きかねない状況のなかで、そうやってなんとか共に生きてる。たぶん、そうしないと生きていけない。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。