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「ちゃんと血が流れ出してる」――ポップカルチャーとゴシック趣味

uncanny という感じ

自分はときどき娘の好きな歌のビデオやらアニメ番組を見せられている。で、最近の若者文化の関心対象にはどうも共通の特徴があると感じていた(といってもうちの子を通じて知った部分だけだけど)。それを表現する言葉が出てこないでむずむずしていたのだが、あるときふと思い出した。uncanny という英語がそれである。

よい訳語が思い浮かばんのでネット検索してみると、一見よく知っているように思えるけど、どこかしっくりこないというか異質なものがあって、親しみを覚えるのに、というか、それゆえに気持ち悪いといった感じのことを指すらしい。中途半端に近いゆえに不安を生み出し、拒絶されやすいとされる。「不気味」「異常」などと訳されているが、日本語には適当な言葉がないようだ。

ただ訳すだけでは意味が伝わらないので、自分がこんな感じかなと考えた例を挙げてみる。夜道を歩いていると、柳の木の下で女の人がしくしく泣いていたとする。こんな夜になぜ女が一人でと怪しんで「どうしたんですか」と問いかける。すると、振り向いた女の顔は、目も鼻も口もないのっぺらぼう。この話が不気味であるのは、人間に見えたものが、ある重要な点で人間ではなかったという点にある。これが人間とはかけ離れた野獣や化け物であれば、別の意味では怖いけども、uncanny ではない。足のない幽霊や、動く死体のゾンビなどもまたこの類の不気味さを持っている。

そうかと思うと、ぜんぜん別なものから同様の感じを受けることもあるようで、uncanny の解釈にもいろいろある。たとえば、機械的な作業を繰り返していると、突然自分のやっていることがわからなくなることがある。子供の時に、漢字の書き取りで何度も同じ字を繰り返し書いていると、そのうち何を書いているのかわからなくなった経験がある人が多いと思う。字を書くという日常のありふれた行為が突然不可思議なものに思われ、見慣れた文字が全く意味の分からない記号に見えてきたりするのである。中島敦の短篇「文字禍」では、この感覚が効果的に用いられていた。

これは幽霊なんかとはぜんぜんちがう感じに思えるんだが、慣れ親しんだもの、日常的なものだと思っていたものが、実は理解不能な闇をその背後に隠し持っていたという意味で、共通性があるのかもしれない。

若者文化ににおける uncanny

じゃあ、現代の若者文化のどこらへんが uncanny かというと、まずは歌うコンピュータである。若い女性の声に聞こえるが、よく聞くと人間ではない。特に早口や高音になると電気的に構成された音であるのがわかるのだが、その人間の声から人間とはかけ離れた音になる境目が曖昧で、なんだか気持ち悪い。

演奏の方もコンピュータで合成されたもので、機械的な旋律が機械的なリズムで繰り返される。どこかで聞いたような旋律・リズムを使いまわしたものなのだが、それが単調に繰り返されると、壊れた機械仕掛けの人形のようにこれもまた不気味である。むしろ、そうした効果を意識的に使ったものも多い。

音楽だけじゃなくて、歌詞もビデオの映像もマンガの話の内容も uncanny なものを扱っているものが多い。日ごろから見慣れた日常が不気味なものによって浸食されたり、全く遠い存在、別世界に属するものだと思っていたものが実は近い存在であったことがわかってきて、通常と異常の境目が曖昧になったりする。

傷への愛

しかし、自分にいちばん興味深いのは、身体へのキズへの執着である。死を扱ったものも多いのであるが、公でのきれいに消毒されたものではなく、キズの延長線上にある「ぐちょっ」とか「べちゃっ」としたイメージで表される死である。

大分前のことになるが、まだ小学生か中学生だったうちの娘に眼帯を買ってくれとせがまれた。ものもらいにでもなったかと思ったら、マンガに出ていて格好がいいそうだ。一種のファッションなのである。何をバカなことをと思っていたら、眼帯や包帯をしている女子高生が出てくる歌のビデオ(在日ファンクの「キズ」)があって、最後にはその一人が傷口から流れる血をベロッとなめる。


なぜキズにこだわるかというと、これもまた uncanny と関係がある。あまりよろしくない例であるが、健常者に uncanny な感じを抱かせるものとして障碍を持っている人たちがいる。同じヒトなのだけどどこかが違うというのが常人を不安にさせるのである。

健常者でもケガや病気の時は、一時的な障碍者ととらえられる。ちょっと表皮が破れてベチョベチョ、ドロドロのものが表に出ると、急いで病院に連れていかれて、乾いた肌が再生するまでキズは人目から隔離される。逆にいうと、眼帯や包帯というのは、その下にベタベタ、グチョグチョがあるよという標識でもある。

フロイトによると、uncanny とは本来は禁忌として表に出せないものが目につくところに出てしまっている状態から得られる感覚だから、本来のunheimlichというドイツ語の語源の意味(隠されているはずものが隠されていない状態)に近い。

でも、なぜに今日の少年少女たち(もう少し年配の方々も含められるのだろうけど)はそれほど uncanny なものへの関心が高いのか? 流行りものと言ってしまえばそれまでだけど、若い世代が生まれ育った世相と関係があるんじゃないだろかと思う。

なぜゴシックなのか?

ゲーテは、ストラスブールのゴシック様式の大聖堂に有機的な生命を見た(厳密に言うと純粋なゴシック建築様式ではないようではあるが、ゲーテはそう理解した)。

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(この画像はhttps://www.flickr.com/photos/48264126@N00/4660297690のjeffowenphotosによってFlickrに投稿されたものである。変更は加えていない。この記事の文責は筆者にあり、画像の作者は記事の内容にいかなる支持も与えるものではない)

「ゴシック」は元々「野蛮な」とか「原始的な」を意味する軽蔑を示す形容詞だった。ゴシック芸術を、単純さと明晰さを重視する新古典派と対照させ、「生命にあふれた」または「有機的」なものと肯定的に評価したのは、いつぞや話したロマン主義であった。

ロマン主義者にとっては合理性や明晰さは「死」を意味する。そうではなく、謎を秘めた闇を背後にもつ有機的なものの方に生命の本領を見たのである。

興味深いことに、ますます合理化され官僚化された世界において、有機的生命への欲求は、より病的な方法でも表現された。死、血、じくじくした傷、奇形、狂気、サディスティックな拷問などへの関心である(例えば、メアリー・シェリーのフランケンシュタインなどを思い起こしてみよ)。

日本でも自分の少年時代のアニメといえばメカものであったが、最近のものはメカであっても純粋な機械ではなく、有機的なものと結びついているものが多い。エヴァンゲリオンとか攻殻機動隊のように、ちょっと機械と有機体との境目が曖昧になって、二重の意味で uncanny なものになっている。なぜか?

結局のところ、自分が生きていることを確認したければ、自分の体に傷をつけてみればよい。出血して痛みを感じるならば、多分あなたはまだ生きている。ゴシック様式の大聖堂は生命をもたないモノであるが、切り刻まれたときにはまるで出血するかのように見える。ゴシック様式ではないが、バルセロナのサグラダ・ファミリア教会を思い起こしてもよい。

ちなみにタイトルの「ちゃんと血が流れ出してる」は、Drop's というバンドの「こわして」の歌詞からとったもの。余談だが、興味深いことに、サブカル的なインディーズからメジャーに移行するにつれて、このゴシック的要素は抑圧されていって、甘ったるいロマン主義だけが残るようになる。ロマン主義の大衆化、通俗化の一例である。この歌などはちょうど境界線上にある。


かつてキリストの痛ましい像に性的な興奮に近いものをもった人びとがいたように、そしてぼくらの世代がデビルマンなどの肉体が傷つけられ青い血液を流すのにメカものとは異なる恍惚を覚えたように、今の世代も有機的な身体が切り刻まれることにある種の興奮を覚える。エロ・グロ・ナンセンスと通ずるところがある。

そう考えれば、今日のポップカルチャー、特に若い人たちの文化にゴシック様式の要素が溢れている理由に思い当たる。彼らは、身体から血や体液が流れることを確認することにより、自分たちがまだ生きていることを確認したいのかもしれない。つまり、消毒され過ぎた日常において、彼らは自分が機械なのか有機体なのかわからなくなっていて、本当に生きているかどうか不安なのかもしれない。

あまりに短絡に過ぎる仮説かもしれんが、これほどの傷が巷にあふれている今日、若者の悪趣味な好奇心として無視していいような話でないような気がする。

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コーヒー一杯ごちそうしてくれれば、生きていく糧になりそうな話をしてくれる。そういう人間にわたしはなりたい。とくにコーヒー飲みたくなったときには。