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すべてよし(究極の自己肯定について)

オイディプスの「すべてよし」

ソフォクレスの悲劇『オイディプス王』のセリフにこんなものがある。

「これほどおびただしい試練にかかわらず、私の高齢と魂の高貴さから私はこう結論せざるをえない。すべてよし、と。」

自分なりに意訳すると、こういうことだと思う。

「いろいろひどいめにはあったよ。だけど、こうやって心をけがされることなく歳をとれたということは、自分はけっこういいとこいってるってことじゃね。」

アルベール・カミュが『異邦人』の意味を解説した『シーシュポスの神話』に引用されていて、知ってる人も多いと思うが、その意味は自明ではない。なんとなれば、試練にさらされた人生を送って年を取ったことを「すべてよし」とは、普通は言わないからである。

オイディプスは、父殺しと母との姦通という恐ろしい罪を犯したことを知り、狂乱のあまりに自分の目をつぶし、王座から追われ、手に入れたものをすべてを失い乞食となり、復讐の神に終生追われる存在となった。その彼がこう言ったのである。常識なら「すべてよし」どころじゃない。考えられる限りの不幸の満貫である。自己肯定感どころじゃないはずだ。強がりでなかったら、狂気の沙汰にしか思えない。

シーシュポスの「幸福」

シーシュポスとは伝説上のギリシャの王で、神に対して罪を犯してある罰を受けている。山頂に向かって大きな岩を背負って運ぶのであるが、山頂につくとその岩はまた転がり落ちてしまう。それをまた背負っていくという不毛な行為を未来永劫繰り返させられるという罰である。

絶望に陥って当然なのであるが、カミュはこのシーシュポスに不条理な世界に生きる人間の理想を読み込む。努力が報われないと知りながらも、なおかつ岩を持ち上げていくシーシュポスには、もはや世界の不条理など意味はない。岩を押し上げる作業が続くことに幸福を見出し、それに忠実に従う。生きることの成果ではなく生きること自体に喜びがある。そして、生きるとは外から押し付けられた重荷を抛り出さないことである。

世界に見捨てられようとも、われわれは生きなければならない。「お前には絶望しかない」と言い残して死んだ神に対して抵抗しなければならない。それは絶望せずに不毛な生を楽しむある種の強さを身につけることである。その強さはある種の鈍感さ、不条理に対する感受性の抑圧として表現されうるようなものである。

ムルソーの「誇り」

「なぜ殺したか」と問われて「太陽がまぶしかったから」と答えた『異邦人』の主人公のムルソーが、まさにこの生き方を体現しているらしい。何も判断せず、何に対しても無感動であるようなムルソーが怒りを爆発させるのは、死刑を宣告された後、神父に改悛を促されるときである。長くなるが、圧巻の場面なのでまるまる引用してみよう。訳は窪田啓作訳のものである。

君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本にも値しない。君は死人のような生き方をしているから。自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今なお正しい。いつも、私は正しいのだ。

主体性がまったく欠けていたようなムルソーの生き方は、主体性を許さない世界における主体性の極限の形態であった。何ものにも抵抗しないような彼の態度は、「すべてよし」という尊大な自己肯定のあらわれであった。引用を続けよう。

私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、わたしに差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命――そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。

宿命とは自分でつかみ取るものではない。それは向こうからやってくる。われわれはそれを予感することはできるが、避けることはできない。われわれが選び取るのはその押しつけられた宿命とどう向き合うかである。その向き合い方次第で、年月によって「高貴な魂」を汚されずに保てるかどうかが決まる。オイディプスのように「すべてよし」と言えるかどうかは、ここにかかっている。

君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう? サラマノの犬には、その女房と同じ値うちがあるのだ。機械人形みたいな小柄の女も、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろう? この死刑囚、め、君はいったいわかっているのか、私の未来の底から⋯⋯ 

この悲劇的存在としての人間はひとしなみに運命に選ばれた特権者である。自分で選ぶのではなく、運命が他でもない自分を選んでくれるのである。それを拒否することは自分自身を拒否することである。「すべてよし」とは自己否定でなく究極の自己肯定である。

オイディプスの「すべてよし」の簡潔さと比較して、ムルソーの饒舌で情熱的なセリフは古代ギリシャ人には見苦しかったであろう苦悩や煩悶の跡を残している。何か未解決のものを示唆している。だが、それゆえに、現代人にはオイディプスよりもムルソーの方が理解が容易な存在でもある。

(画像:By Albert Greiner - Unknown, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1215514)

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