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そうだ、家を作ろう

おもむろに思い立った。
10年くらい前のことだ。
これは無性に家が建てたくなって、所持金30万から家が建つまでのお話。

結果を言えば、建てよう!と思ってから建つまでの1年とちょい。怒涛の1年でございました。それはほんとに衝動としか言いようのない、まるで便意を感じた時にそうするしかないような、そんな感じだった。

その少し前に友人夫婦がコンテナでショップを建てた。私のコンテナハウス構想はすでにその時から始まっていたのかもしれない。

当時私は、プレハブの事務所で仕事をしていた。お風呂とトイレはない。20畳くらいのただの四角い箱のような建物で、親戚のお兄さん(例のドイツ菓子の)が事務所として使っていたのだが、更地にするためその事務所をいらんかと申し出があった。移築の費用はこっちでもつとのこと。
まぁ、倉庫にしてもいいしねってことで譲り受けたものを、後に私が事務所として活用したわけだ。白い外壁と平屋根で、私は「豆腐ハウス」と呼んでいた。水回りを中に持ち込みたくなくて、外付けで水道を引いて、父の建材コレクションからキッチンの一部をもらって、屋根をつけてもらった。ほとんど吹きさらしのキッチンだ。

そこを事務所にしたのには理由がある。
私は母と一つ屋根の下で暮らすことがキツかったのだ。仕事の合間に声をかけられたり、用事を頼まれたり、お茶に呼ばれたりが嫌だった。それは私が「断れない人」だったというのも大きい。商売を営んでいたので店番を頼まれることもしばしば。銀行への入金や配達などにも駆り出されていた。
仕事中だと断ると、じゃあいつならいいのか、となる。断りきるということができなかったのだ。断るには理由がいるとも思っていた。なので仕事がひと段落すれば、母の要求に応えるのは責務だとさえ感じていたのだが、実のところ勘弁して欲しかった。

豆腐ハウスに移ってからは、とりあえずお茶に呼ばれることは激減したが、母の要求は続いていた。ご飯と風呂と寝るのは相変わらず基本母屋だったが、三人がけソファを購入してからは事務所で寝ることが増えた。私はじりじりと母から遠ざかることを意図していた。

が、なんだか限界を感じたのだ。住まいを別に持ちたい。

事務所に衣食住を付加したいと考えた。もう今行動に移さなければ、私は一生このままだ、と思った。何より生活動線に無理がある。かくして「家を建てよう」とあいなったわけである。

しかしながら通帳の残高は30万ほど。息子の最後の学費を納めたらほぼすっからかんだ。それでも、建てたいと思ってしまった気持ちはもう消すことができず、建てる一択だった。その2年後には息子の学資保険500万が満期になる。でもそれまで待ってられない。・・・・そう、私はそのとき、500万でなんとか家が建たないかと目論んでいたのだ。コンテナを使えばかなり費用は抑えられる。プラスαくらいならなんとかなる。それで建てられる家を建てよう。ああ、しかしお金はどうしたもんか。そんな話を中学からの友達に話したら、

「ふぅん、私が貸したろか。500万でしょ?あんたなら無利子でいいよ。2年後には入るんでしょ?いいよ。貸したるよ。」

「!!!!! ありがとう。貸してくれ。いい友達を持った。」

机上の空論だったものが、俄然現実味を増した。それから数ヶ月、どんな家にするか製図をし、どこに建てるかを画策していった。我が家の敷地内に建てるか、あるいはどこかに土地を借りるか・・・だ。

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