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#5 こんなことがあった(シャコを茹でる)

小学生3年の頃、泉州エリアに引っ越した。

父の職場の転勤が大阪内ということが続いたこと、そして、勤務先関連会社が開発・販売に関わった建売住宅のセールスが社員に行われたのかもしれないが、要は新築の建売住宅を購入し、そこに移り住むことになった。

当時は関西国際空港ができる前だったので、各種開発が行われる前の、大阪とは名ばかりの場所で、歴史に詳しい人であれば「日根野庄」でイメージできるようなため池がそこここにある場所、社会問題に関心がある人であれば京都大学の原子力研究所がある場所、あるいは泉州タオルの工場があったり、玉ねぎや水茄子の産地であったりと、これらの文章から容易に想像できるような田舎だった。

車でそれほど遠くない場所に漁港があり、そこでの買い物が面白かったらしい母が週1か月2で友人と買い物に行った時期があった。時には私や弟を連れて行くこともあった。そこで何度か購入していたのが袋詰めされた蝦蛄(しゃこ)である。

一袋いくらといった感じで売られていた蝦蛄を、母はお買い得だと思ったらしい。また、水揚げされてまだ袋の中で動いている蝦蛄の活きの良さを気にいったらしい。袋ごと買われた蝦蛄は自宅へ戻る車の中でまだ動いていて確かに活きは良かった。ただ、袋の中でひしめくさまは、磯辺で見かけるフナムシを連想させ、私にとっては不気味なものだった。

母はその蝦蛄を子どもたちのおやつに相応しいと思ってしまったらしい。そういうことは子ども本人に意見を聞いてもらいたいのだが、その発想は彼女にはあまり無かった。しかも悪いことに、生きているものの調理は苦手だった。ゴキブリや蜂を見た時と同様に蝦蛄やエビがうごめいたり跳ねたりすると騒ぐタイプだった。だったらまだ生きている蝦蛄を袋一杯買うことはないだろう、と子どもながらに思った。

そうなるとどうなるかというと、大鍋にお湯を沸かした後の対応は私に一任されてしまうことになる。つまり、袋一杯の蝦蛄を押し付けられた私が、笊に空け、ざっと水洗いし、まだ元気に動いている蝦蛄を一匹ずつ摘まみ上げて鍋に放り込むことになった。小学校高学年なのでその程度の調理作業はこなせるとしても、別に自分が食べたいと思っていない蝦蛄をお湯に放りこんで殺し、色づいた蝦蛄をすくってトレーに積む作業は、言われたからやるしかないとしても、楽しい作業ではなかった。

なお、弟はまだ低学年だったし、そもそも火を使わせると何が起きるかわからないし、どことなくまだ息子に家事をさせるのは主婦としてありえない、という意識があったみたいで、この手の作業に巻き込まれることはなかった。

ゆでる前の蝦蛄の透明がかった薄い灰色や綺麗な青色、お湯に入れるとすぐに静かになってしまうこと、海老のようにゆであがると色づくこと、それらが漁港の潮の匂いとともにまだ覚えている。

ゆであがった蝦蛄は、レシピなどでは綺麗に向いた状態で供されるが、そのあたりが大雑把すぎる人だったので、殻付きのままお皿に乗せて、「さあ、おやつだから食べなさい、殻をむいて食べるか、そのままかぶりついてから殻を外すらしいよ(漁港でそう説明されたらしい)」と出されたのだった。

自分で殻をむいて食べたいと言うほど好物ではなかったので、これを出すなら菓子パンを出してくれた方が嬉しいのだがなと思いつつ、食べないと贅沢だと機嫌が悪くなるので数匹程度食べたのだった。弟は「食べれん」と言って逃げたので、残りを私と母が消費することになった。私も食べたくないと言えればよかったのだが、そういう雰囲気ではなかった。

ちなみにかぶりついてから殻を外すという方法を試したら、殻で口を切ってしまった。そして蝦蛄を含む甲殻類はどちらかというと不得手な食材になった。お歳暮でおがぐず入りの箱で届けられる活車海老の対応もなぜか「平気な人だから」という理由で私が担当になってしまっていたので、蝦蛄同様にある程度以上のサイズの海老も、そしてそこから発展して蟹も食べなくて構わなければ食べたくない程度に苦手だ。

長じて寿司屋で蝦蛄が高級食材であることを知り、自分がそれが苦手になったことも含めていろいろ残念な気分になった。