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吠える犬とお釈迦様の教え

普段通らない道を散歩しました。道中には神社があり、初詣の旗が周囲を囲むように立てられていました。子供の頃にお祭りやお神輿でよく訪れた場所で、楽しい思い出が残っている神社です。神社のすぐ隣には細い坂があり、山の近くまで続いています。鬼ごっこで走り回った以来のその坂を、久しぶりに上ってみることにしました。

いつもは坂の途中で止まるのですが、今日は奥まで行ってみました。やぶの中をギリギリ道が通っていて、そこを抜けると山と住宅街の境界にたどり着きました。右手は家で左手は山、一歩踏み出せば違う世界に行ける不思議な場所です。階段を下って住宅街に戻ろうとすると、一匹の柴犬が吠えているのに気がつきました。

ここで思い出したのは、お釈迦様の「贈り物を受け取らなければ誰のものになるか」という話でした。ひどい言葉で罵られても反応しないお釈迦様に対して、弟子は「なぜ怒らないのか」と聞き、それに釈迦様は贈り物の話で答えました。つまり、贈り物を受け取らなければ相手のものになるように、悪口も受け取らなければ相手の元に帰っていくというわけです。

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」という言葉もあります。これは悪意に対して悪意で答えてはならないということです。そうすることで負の連鎖が生まれたり、悪意を持った人と同じレベルに成り下がってしまうからです。必要なのは、悪意を受け止めても動じない心の余裕です。

犬に対しても、何も反応せずに頭を空っぽにして通り過ぎることにしました。彼/彼女がなぜ吠えていたのかは、直接聞いてみなければ分かりません。番犬の役割を果たすために吠えていたのかもしれませんし、人を恐れていたのかもしれません。

考えていることは話さなくても伝わることがあります。表情に表れることもありますし、空気が悪いという言葉があるように、ネガティブな感情が何かしらのエネルギーを発して伝わるのかもしれません。それは動物が本能的な部分で感じとれるもののような気がします。彼/彼女も「こいつ何も考えていないな、吠えても意味ないわ」と感じてくれたのでしょうか。

改めて文章にして振り返ってみると、人と人との話を犬にあてはめていることに気がついて、なんとも言えない気持ちになるのでした。

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