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「本物ではない」ということ

こんにちは。てけみんです。

今日はここで、最近思っていることを書きます。端的に言うと行き詰まりとその打開策についての話です。軽くない話題です。しかも、かなりの自分語りになります。すみません。どうかお許しください。
それでも、書くことで自分の中の考えを整理でき、同時にみなさんと共有することができるかもしれないと思ったのでやってみます。

ある種の決意表明のようなものにもなるかもしれません。
私自身忘れっぽいので、自分を忘れたらここに帰ってこようと思います。

本当はTwitterに投げようと思ったのですが、字数に収まりそうにないのでここに書くことにしました。

読みにくかったらごめんなさい。ぜひコメントください…

尚、できるだけ読みやすくするため、ここから最後のまとめまでは常体で書きます。


「『本物ではない』ということを大切にしたい」という思いを以前から薄々感じているが、それがここ2年くらいでさらに強まっている。

どうやら私は人為的につくられた環境が好きらしい。
その原体験は、幼い頃カレンダーの裏側に描いていた巨大な船の解剖図、小学生の頃遊んだMinecraft、その後の修学旅行で見た枯山水、またはそれまで訪れた無数の建築物かもしれない。
そういう色々な経験から、人工物や人の手がつくった自然に、無意識のうちに関心を持つようになった。

「本腰入れて音楽作ってみるか」と思ったのは高校2年生?の頃。「何か楽しそう」「とにかく作ってみたい」という純粋な思いもあったが、曲作りを通して何か得られるものがあるような気持ちもあった(実際、今こうして自分自身を見つめるきっかけにもなっている)。
元々コンピュータが好きだったこともあり、曲作りはDAW上で行なうと決めていた。
コンピュータで作るからには、それにしかできない表現をしてみたいと思っていた。なので聴き馴染みのあった生楽器の音は敢えて使わないことにした。かわりに、電子的な音や身の回りの音を使ってみようと考えた。
シンセサイザーを知ったのも同じ頃で、その翌年には実際に手にして、色々な音を作って遊んでいた。

音作りの経験とシンセへの愛着が増すにつれ、「曲で使うあらゆる音をシンセで置き換えたい」という気持ちが強まった。今考えると、この時点で「『本物ではない』ということを大切にしたい」という思いを感じ始めていたのかもしれない。当時は意識はしていなかったが。しかもその思いは後に忘れられることになる…

シンセで置き換えたい、という気持ちがあっても、ドラムだけは置き換えられなかった。その理由は、当時作っていた音楽の傾向と私自身の考えにあったと思う。
当時主に作っていた音楽は、ジャンルでいうとChillsynthやSynthwaveにあたる。
私はこれらのジャンルのドラムの音色とビート感を魅力的に感じていて、この雰囲気はシンセで作ったドラムもどきでは到底出せないと考えていた。

ドラムや曲作りに対しての窮屈さ、忘れられた気持ち

私は、自分が魅力的に感じていたChillsynthやSynthwaveといったジャンルに自分自身をいかに近づけられるかという考えのもと、がむしゃらに曲を作り続けた。2021〜2022年はかなり曲を出した時期になったと思う。

しかし今年、2023年に入ってから、ドラムでガチガチに固めたビートを窮屈に感じるようになった。というより、以前から薄々感じていた窮屈さが一層強まった、といった方が正確かもしれない(どこかで聞いた表現だけど)。

それでも響きは思いつく。
良い響きが思いつけば曲にするほかなく、この時期は悶々とした気持ちを抱えながら制作をしていたといえるかもしれない。もちろん実際に曲作り自体、例えばしっくりくる音色や音の配置を考えている時間や、完成した時の達成感は自分にとって心地良いものだった(今もそう)。しかし気持ちの面では、どこか腑に落ちない状態が続くことになった。
それだけでなく、当時の私は自分の思いを十分考えずに曲を作り続けていたように思う。先述した、本物でないことを大切にしたい、という思い。私はただ頭で思いついたイイ響きからイイ曲を作ることに追われ、その思いを考えられずにいた。そうして次第に忘れていった。焦りがあったように思う。「今ここで思いついた響きを忘れてしまえば曲は作れなくなる」という気持ちだけが常にあった。苦しくなった。しかしそうして生み出した曲は必ずしも悪いものではなく、むしろ今でも気に入っているものもある。そしてありがたいことに聴いてくださる方々もいる。しかし何か──自分の思い──を忘れているような感覚はずっとあった。
「自分の思いを忘れている。何かを変えなければいけない」という感情がずっとあった。

今後やりたいこと

ドラムやビート感への窮屈感が高まる一方、もっと自由でテンポに縛られない浮遊感を追求してみたいという思いが強くなっていった。また、忘れていた自分の思い、「本物でないことを大切にしたい」という思いとも改めて向き合い、曲に反映させてみたいという欲求も大きくなった。

ただそれをカタチにするための方法がなかなか思いつかない。部分的に上手くいっているところはあるが、今もどこか息苦しい日々を過ごしている。何よりも自分で納得できる曲作りを目指している身としては、イマイチ落ち着けない。

しかし最近いくつかの打開策を思いついたので、そのいくつかを書ける範囲で書いてみようと思う。併せて、コードと音構成について、そして新たな表現についても考えたのでそれについても書いてみる。

ドラムの音色変更

いくらドラムを窮屈に感じても、作る曲によってはドラムを使わないと締まりが足りない、何か律動的、周期的なものが必要だ、という場合もあるだろう。
そういう場合に、音色を変えてみようという考えだ。
特に、スネアドラムとタムに音色変更を加えてみたいと考えている。
最近私はスネアドラムの音に圧迫感を覚えることが増えた。もちろん素晴らしいスネアの音はたくさんあるし、曲調によっては見事に調和して聴こえることも多い。ただ、私が今後目指そうと思っている曲調、従来より浮遊感がありその場を漂っているような雰囲気の音楽では、スネアの音は存在感がありすぎ、「濃すぎる」と感じることも多いと考えられる。もう少し引っ込んだ音を探している。
同じくタムも、音色によっては濃すぎだと感じることがある。

本記事のタイトルにある「本物ではない」ことにも繋がるが、このスネアやタムに「箱庭」的な考えを取り入れてみるのはどうだろうか。本物の太鼓を模してみようと頑張ったが、どうもなりきれていない音。滑稽かもしれないが、本物とはまた違った良さがあるのではないかと思う。

具体的には、シンセのノイズで太鼓の音を模してみる等が考えられる。これは現に実践しており、手応えがある。
この曲“Recall”↓の0:12から聴こえる音がそれだが、少し奥まった、優しい音になったと感じている。

ドラムのリズムパターン変更

パターンの変更は、そもそもの音が鳴る頻度を変更するわけだから、窮屈さを軽減する方法としては特に効果的だと思う。
例えば、私はこれまで「四つ打ち」を好んで使ってきたが、敢えてそれを使わないといったことが考えられる。四つ打ちは大変重く、キックにサイドチェインなどが掛かれば尚更だ。もう少し軽いパターンに変更したい。音を部分的に抜く、引き算の手法が特に有効だろう。またパターンの音数が減ると、浮遊感も出てくるのではないか。

コードと音構成について

窮屈さを軽減できるリズム以外の方法を考えてみると、ハーモニーが思い浮かんだ。
私は7thの音を含んだ三度感覚の密集の和音(例: C-E-G-B)を好んで使っている。しかしそれでは重すぎる、濃すぎると感じる場面も増えてきた。そこで、完全五度間隔で音を重ねた響きをより積極的に使ってみるのはどうだろうと思った。
例えば「C」から始めると「C-G-D-A-E-B-F#-〜」となるが、これが完全五度間隔の響き(より適した名称があるかもしれない)である。この例の場合、最初の4つの音「C-G-D-A」だけ取り出して並び替えてみると「C-D-G-A」となる。そしてこの和音の根音を「C」と考えてみると、この和音には第三音が無いことになる。これはとても開放的な響きに感じられる。三度間隔とはまた違った、すっきりとした響きだ。コードの表記は分からないので詳しいことは書けないが、恐らくsusのコードに通ずる響きがあるのではないか。私はこの響きを曲に取り入れてみたいと思った。
部分的にではあるが、この完全5度の響きを意識的に取り入れた曲がある。“WIRE竹”↓だ。この曲の冒頭から聴こえる低音部分は完全五度の響きを多用している。私は現にこの響きを気に入っているので、今後も使っていきたいと思っている。

尚、ここまで音色とリズム、ハーモニーについて触れてきたが、音楽の三要素はリズム、ハーモニー、メロディである。とすると「メロディにおいて何か新しい考えはあるのか」と思う方がいるかもしれないが、それは特に無い。私は音楽の人間らしさはメロディであり、曲の中で一番自然体であるべきだと考えている。現時点ではこの考えを変えるつもりはない。


新たな表現

ここまで、窮屈感を抑え、開放感や浮遊感を出す方法を書いてきた。ここからは、私自身の「本物でないことを大切にしたい」という思いをどう楽曲に反映できるかについて、考えを書いていきたい。その考えは「鮮明すぎないサンプラー」である。
サンプラーは、録音されたサンプルを再生するマシンだが、ここでは「鮮明すぎない」ことが大切である。鮮明すぎるほど「本物」に近づいてしまうからだ。
先述した、「曲で使うあらゆる音をシンセで置き換えたい」という気持ちにLo-Fiなサンプラーが加わったかたちである。
「箱庭」的世界、空間の演出として、日常音や生活音などを不鮮明なサンプラーで加工し、曲に取り入れてみたいと思っている。

また、今回の記事の趣旨とは外れるが、鍵盤、グリッド以外の表現として「音楽プログラミング」も気になっている。
人の手では弾けない高速なフレーズを弾かせたり、シーケンサーでランダムにフレーズを演奏させたりするだけでなく、シンセサイザーなどの楽器自体を構築し、音そのものを作ることもできる。まさに思いついたことはなんでもできるような環境だが、相応の勉強も必要。音楽プログラミングをできるソフトは色々あるが、私は“Pure Data”というソフトをインストールして、現在本を読みながら学習しているところだ。将来的に、グラニュラーサンプラーで音の雨を作ったり、リバーブ作成機を作り残響を操作したりできるようになりたい。

これらの手法を使いながら私は、自分自身が納得でき、また聴いてくださる人にも何か得るものがある音楽を作っていきたいと考えている。


すみません、色々と好き勝手書いてしまいました。
内容もまだ整理できていないので、後で自分で読み直して修正するかもしれません。
悶々だの窮屈だの打開策だの書きましたが、正直自分でもどこまでが本当かわかりません。
文章が下手なので、勢いに任せて書いたあやふやな嘘も含まれるかもしれません。
しかし、自分の感じたこと、考えたことをそのまま正直に書こうと努めました。

また、ここで書いたことは今後の私自身の気分により変更されたり、あるいは白紙に戻されたりするかもしれません。あくまで現時点の自分自身の感情であり、考えです。

書いていて思いましたが、やはり気持ちの面も大切ですね。自分の趣味なので、楽しめそうなことから、のんびり進めて行けたらいいなと思っています。

それではまた〜 :3

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